怒涛の夏が終わった秋の最中のことである。
「剣心、あなた、私があのへんてこな船から落とされた時、追いかけて海に落ちたって本当?」
薫が縁側に座って、洗濯物を干す剣心に声をかけた。体がすっかり治って、それでもまだ養生してくださいと恵は言ったが、剣心は全く聞き入れることなく神谷家の家事をすべてこなしていた。料理、洗濯、掃除、買い出し。風呂を焚くのも勿論している。薫はそんな剣心に何度もそこまでする必要はないわ、と云うのだがこれも聞き入れない。拙者の好きでしていることでござる、とその心を読ませない顔をしている。綺麗な顔立ちにその曖昧でぼんやりとした笑みは似合わないといつも薫は思っている。
その笑みは今はない。剣心はおろ、と声を漏らして、それから少しこちらの様子を伺っている。しかし洗濯物を干す手は止めない。
「志々雄がいたのに、なんで私を追いかけたの」
薫は剣心の過去の名前と所業の一部しか知らない。人斬り抜刀斎として名を馳せ、長州派維新志士として多くの佐幕派の人間を斬り殺した男。しかしながら、目の前でのんびりと日々を楽しむ姿を見ていればそんなのは嘘にしか思えなかった。勿論、剣の腕前を見たからにはそれが嘘だとも思えなくなってしまったのだが、やはり、噂に聞くだけの人斬り抜刀斎と目の前にいる緋村剣心が薫の中では繋がらない。できれば、戦うことなくこのまま穏やかな日々を送ることができるように成ればいいと思う。剣術道場の師範代であるが、薫は基本的に暴力沙汰は嫌いである。剣術は己の心を鍛えるためにあると考えるし、竹刀を振るっていても、誰かを傷つけるために、殺すために日々の修行や鍛錬をつむわけではない。ただ、己の剣で誰かを守りたいというだけなのだ。だから、薫の剣で剣心の平穏な日々を守ってやりたかった。年上だけれど、時々迷子になってしまった幼子のように見えて、たまらなく胸が締め付けられる。
剣心は少々眉を顰めてこちらを見た。なんとも言い難い顔をしている。剣心自身も言葉を探している様子で、そういう戸惑ったところを見るのは初めてであった。警察署から出てきた剣心を家に招いた時もその大きな目を見開いて驚いていたし、京都で再会した時も何故ここにとばかりに目を見開いていた。けれど、こんな風に戸惑う姿は初めてであった。
「薫殿を助けられなければ、志々雄を倒した所で拙者にとって無意味なのでござるよ」
「でも、私を追って海に落ちちゃったら、志々雄を倒せないじゃない。死んでしまうかもしれない。今回は私達とても運が良かったわ。でも、私は剣心には生きててほしいわ。私にどんな事があっても」
「拙者は敵を倒すために戦うのはもう御免でござる。誰かを守るために戦いたい。そして拙者は薫殿や多くの人々を志々雄の魔の手から守るために戦いに向かったのでござる……」
それなのにそんなことを言ってくれるか、と剣心が目で責める。責めたいのはこちらの方だ。剣心には生きてて欲しい。たとえ何があっても。この道場の汚名を雪いでくれたし、命の恩人でもあるし、父が他界してからも何かと忙しかったけれど寂しかった日々を優しさで包んでくれるこの人を薫は大切にしたかった。だから、剣心が薫を追って海に落ちたと聞いた時は血の気が引いた。あの時さよならを言われたのに京都まで追いかけてきたのは薫で、剣心の戦いの助力となりたかったのにそれもできず、挙句の果てに敵に攫われ、剣心の命を危うくさせたことで薫はほとほと自分に呆れた。強くならなければ、この人を守れない。この人は優しすぎる。
「剣心、あなたは人に思いを託される人だわ。あなたは強いもの。だから、強さの分だけいろいろと責任があるわ。あなたの優しさは知っているけど、あなたのその剣を頼りにする人に応えてあげて。私は後回しにしてくれたって――」
「拙者は単に人より早く動けるだけに過ぎぬ。強くなんかない。薫殿、」
剣心が少し怒ったように歩きながら薫の目の前に立つ。縁側に座ったままの薫からは剣心の顔が遠い。それを剣心はぐっと距離を詰めてきた。これほどまでに近くに存在を感じるのはあの別れを告げられた日以来である。あの時は動揺が大きくて分からなかったが、剣心からは男の人の匂いがした。体温は少し高いかもしれない。華奢に見えるが超人的な動きを可能にする筋肉がしっかりとその身についていた。
「拙者は旅立つ時別れなど告げたことは殆どない。別れを惜しむことなど流浪人には不要なことでござる……。この意味がわかっていただけるか」
まっすぐ見つめられて、その黒い瞳の中には自分だけが映っているのだと思うと頬が熱くなってくる。
「えっと、その、別れを惜しんだら流浪人じゃない、ってこと?」
剣心はその答えを気に入らなかったらしい、微妙な顔をしたが、ゆっくりと薫を押し倒して縁側に横たえさせた。つまりは剣心に覆いかぶさられている、人斬り刃衛と出遭った時のように。あの時はいきなりで馬乗りされていることにも気を回せなかったが、今は違う、なんでなんでと混乱する薫の顎に剣心は手を添えた。
「薫殿、拙者がこれより先を生きていく為にはあなたが必要でござる。世の人々を助けることも大切な信念だが、それ以上に薫殿を蔑ろには出来ぬ」
「わ、わたし、大した事をしてないわ。剣心の足手まといになってばかりなのに。刃衛の時も、志々雄の時も、人質にされて……」
顔を背けたい、剣心の顔が近すぎる。家には他の者もいるはずなのに、まるで二人っきりのようで、自分の心臓の音が聞こえてきそうな気もするし、耳は剣心の吐息を捉えて更に心臓の鼓動を加速させる。剣心、手を動かさないで。
「薫殿は強い。剣腕だけではなく、その心が。拙者のような臆病者すら助けてしまう優しさがある」
「剣心が臆病者だなんて……そんなことはないわ。それに、私は強くなんかない」
「薫殿は謙遜が過ぎるでござるなぁ」
剣心が微笑んだ。初めて見た。そんな笑い方もできるのね、とぽろりと零すと、剣心は薫殿のお陰で、と返す。そして薫との距離を今一度詰めてきた。もう殆んど肌がくっついている、衣が隔てているけれど、それでも体のあたたかさを、肉を感じる。この人は男の人なんだと理屈でなく理解した。そして薫は女だ。
「薫殿、いつかの返事をしてくれぬか」
「え……?」
「拙者の行く末を共に見守ってくださらぬか」
剣心が少し顔を傾けて近づいてくる。抗えない、抗うつもりもない、受け入れたい、だってこの人はこんなにも薫を求めてやまないのだから。
薫は少しだけ身を起こして剣心の首に腕を絡ませる。剣心は薫の頭を支えてくれた。重ねた唇を確かめる。お互いの吐息が絡まる。剣心の腕が薫を強く抱きしめて少し苦しいけれど、五月十四日に感じた胸の苦しみに比べればなんともない。それでも何故だが目が熱い。
「置いて行かないで。絶対よ」
「承知したでござる」
剣心は泣きそうな顔をしながら微笑んだ。その笑顔をずっと見たかった。
