大津の秋はそこまで寒く感じられないが、流石に水を被ったあとはあたたかさを肌が求めている。京にいた頃は頭から血に塗れることもあったので、そういう時は小萩屋に戻ってから音を立てぬように頭から水を被って流したものだが、今の暮らしではそのようなこともない。穏やかなものである。
濡れた髪が裸の背にはりついていて不愉快だった、いつものように総髪にしてしまう。前髪は相変わらず垂らされていて、若衆のようだが、前髪も横髪も垂らしていると顔を見られずにすむし、こちらの表情を読みにくくさせるから、わざとそうしている。
家に入れば巴は裁縫をしていた。ほつれていた剣心の着物を繕っているのだ。その手に淀みはない。小さな針がちまちまと動いている。その白い指に針が刺さりやしないか、とも思うのだが、女はそういうへまをしない。比古といた時、随分下手くそに縫っていた剣心は、何度か針で怪我をした。男だけの生活だったからあまり気にしなかったが、丁寧に縫う方が長持ちすることを知った。女はきちんと細かく丁寧に美しく縫う。器用なものだ、とじっと見ていたら巴が顔を上げて、どうかなさいましたか、と訊ねる。
「いや、なんでも」
「もうすぐ縫い終わります。夕餉の支度はできております」
暫くして、巴が歯で糸を切り、何度か布を引っ張って、終わったことを知る。
巴は立ち上がると剣心の後ろに回って、髪を触った。
「どうかしたか」
「御髪が濡れてます。きちんと乾かさないと風邪を引きますよ」
「風邪なんて、ここ数年無縁だ。平気だろう」
「油断されていると風邪を引きますよ」
巴は手ぬぐいを新たに持ってくると、髪を束ねてあった紐を解いた。確かにまだ髪が濡れている気もするが、剣心はあまり気にしない程度である。巴は、優しく髪を包んで、髪を乾かす。まるで母親に面倒を見てもらう子供のようで恥ずかしいと今更思い始めるが、巴の心遣いを無碍にするのも申し訳ない。
「あなたの髪は、赤いですね」
巴がふとそういう。確かに剣心の髪は黒くない。赤毛のこの髪を見て、緋村と名乗れと言った男がいた。姓がないと格好がつかぬ、とも言っていたかもしれない。見事な緋色の髪だ、まるで南蛮人のような、という輩もいた。目立って良くないから黒くしろというものもいた。血に塗れる人斬りらしくて面白いではないか、と笑うものもいた。剣心にとっては髪の色などどうでも良かった。
「君の髪は黒いな」
巴の髪の、黒いが、つややかで美しいのを見ると、くすんだ赤毛などどうでも良かった。偶に、その髪に触れてみたいと思うが、それがどうにも出来ないでいる。巴の髪を赤く汚してしまいそうな気がして、そんなことはならないと分かっていても触れずにいる。肉欲よりも怯懦が勝つような男が、抜刀斎などと物騒で大層な名を頂いているのだから世の中もおかしいものだ。
巴は言葉もなく剣心の髪を拭い終えると、夕餉を用意して、そのまま二人は床につく。この生活は言葉が少ないが、その方が剣心には気が楽だった。愛想が良くないのはさんざ言われてきたからよく知っている、故に同じくらい愛想のない巴の、たまに伺える優しさを感じられることが嬉しかった。その手を見れば握りたくなり、その髪を見れば指に絡めて遊びたくなり、その声を聞けば耳が更に求め、その後ろ姿を見ると抱きすくめて離したくなくなる。だが巴の気持ちが見えぬ以上、何もできぬ。それでよかった。これ以上巴を知ってしまえば巴に溺れる。それだけはできない、と京都で生まれた鬼が剣心の中で囁く。
わかっている、とぞんざいに返答した剣心は、衝立の向こうにかすかに見える黒髪が広がっているのを見て、幾度となく繰り返したように、今もまたつばを飲み込みやり過ごすことしかできなかった。
