人を斬ったのは幾人目になるかを当の本人は全く数えていなかったのに、検分役の飯塚が、これで丁度百人斬りだぜ、と言った。そうですか、とだけ返し、刀を鞘に納める。今宵は五人斬った。斬らねばならなかった男の他に、その警護に当たっていた者を斬った。あちらこちらを向きながら倒れている者達が点々と散らばっている。狭く暗い路地には血の臭いがまるで淀んだ井戸水のように篭っていて流石の抜刀斎にも耐え難くなっている。
用が済んだのだから早く戻って頭から水を被ってしまいたい。活きのいい男が一人いて、やたらと無駄に手がかかり、尚かつ背の高い男の首を斬ったら血飛沫を頭に受けたので、洗いたいのだ。目に血が入りやしないかと袖で当てずっぽうに拭っているが、やはりどうにもならない。
「いンや、しっかし、半年足らずで百人斬りか……。すげえな」
「多い日は五、六人、少ない日は一人か二人。それを繰り返しただけです」
「だからと言ってそれをやってのけちまう輩なんてそうそういねエんだぜ」
飯塚は顔を歪めて口角を上げる。こちらを見る目が鋭い。馬鹿馬鹿しい、刀を振るえば人が動かなくなるだけだ。刃が人の肉を断ち、血を飛び散らせるだけだ。そして連中の振るう剣を避けていれば怪我などしない。比古清十郎より弱い人間に負ける気もしない。
「戻っていいですか」
「構わねエよ。ゆっくり休め」
斬奸状を投げ捨て、飯塚と斬り殺した男達を置き去り、小萩屋に急ぐ。返り血が滑って気持ち悪い。
初めて人を斬った日、暗い夜の闇の中で見知らぬ身形のいい男が緋村の振るった剣を受けて倒れて息をやめた。呆気なく死んだ男を前にして、こんなに簡単に事切れるものかと驚いたのを今でも忘れない。師匠を相手にしていた時は何故一太刀も浴びせられないのかと地団駄を踏んだものだったが、山を降りてすれ違う世間の男たちはとても弱かった。飯塚は、そりゃそうだろう、連中の貧相な腕やらぶくぶく膨らんだ腹を見てみろよ、まともに刀を振るえる訳がねエ、それにお前さんに勝てるやつなんざ、この世にはいねエかも知んねエぞ、と云う。そんな連中を斬って本当に己の目指す世を作れるのか、幼く未熟な緋村抜刀斎には分からなかった。彼らを斬って、それでどうなるのだろう。桂はこれも新時代のためという。弱き人々を守るため、新時代を築くために人を斬ることを命ぜられたが、死んでいく彼らは一体何者なのだろう。彼らは新時代を築くのに邪魔になるらしい。緋村抜刀斎は長州藩士の進むべき道を整えるために妨げになるものを取り除くのだという。
*
「まるで阿修羅だな」
桂の知り合いだという誰かがそう言った。慶応元年の夏である。
元治二年は非常に慌ただしい年明けで、遊撃剣士などというものに命ぜられてからすぐにあちこちへ行く羽目になったが、どこへ行ったところで緋村のするべきことに変わりはなかった。この国の要であるこの土地で只管人を斬る。出来れば斬りたくないと出合い頭に言えば、鼻で笑われる。
緋村が斬ってきたのは木偶の坊ではなく、独活の大木でもなく、案山子でもないと知ったのは元治元年末のことである。それ以来、緋村の剣は益々冴え渡ったが、反面、緋村の胸裏は血と脂と泥で出来たもので澱んでいくのであった。酒は日に日に不味くなるどころか味も分からなくなり、刀を抱かなければ眠れぬ体に変わりはなく、そんな様子しか見せない緋村に近寄る物好きはおらず、用がなければ人と言葉を交わすことも稀になった。
そんな緋村を酒に誘う男がいた。緋村は確かに大層な剣の腕を持っていたが、年若く学もないので桂のような偉い人物として扱われることはなかった。そして話していて楽しい相手ではないと皆が皆知っているので酒に誘われるのが随分久しぶりだった。
「何のことです」
男に見覚えはあったが名を思い出すことはできなかった。無精髭と薄汚れた格好をしているから、恐らくは桂の知り合いといっても幕府や外国を相手にするような立場ではないのだろう。或いは幕府や新撰組等に追われているのか。何にせよ、この男は生まれた時から武士であったのかもしれないと思われる。貧農の家に生まれた緋村とは何かが違っていた。臭いかもしれないし、立ち振る舞い等にそれが表れていたのかもしれないがはっきりとは言えなかった。
男は酒を呷る。喉仏が上下する様子を見る、斬りにくそうな太い首であることよ。こういう手合いは斬りたくない、面倒で厄介だからだ。
「おめさん、阿修羅ってのは知ってるかい」
宿で眠るふりをしていたところに男はやってきて酒を飲まんかと緋村を連れ出してきた。出されたお猪口に口をつけ、一気に流し飲むと男は面白そうな顔をしていたが、それ以来一切飲まぬ様子の緋村を見て詰まらんと言いたげだったくせに、また面白いものを見つけたという顔をする。百面相とは器用なことだ、と緋村は思っていた。
「あまり。仏神のことでしょう、それだけしか知りません」
学のない緋村にはそれ以上のことはわからないが、争いに身を投じる緋村を阿修羅の如しという輩がいることは知っていた。戦好きだとかなんだとか。緋村は別段戦いたくて戦っているわけではない。戦うことしか知らないからこうして桂達に立ちはだかる敵を斬り殺しているだけであって、別の手段を用いて己の望むことが叶えられるのならばそうしていただろう。緋村は寒村の生まれの只の世間知らずな餓鬼でしかなかった。桂や高杉のような大望を抱いているのではなかった。ただ生きることに必死だった。
「阿修羅ってのはなア、帝釈天ってやつにずっと戦を仕掛けてるんだよ」
「はア」
「なんで戦を仕掛けてるかわかるか」
「さア」
気のない返事をしても相手の男の奇妙な笑みは変わらない。
「色んな話があるのよオ……。阿修羅の娘を帝釈天がかっさらったからとか、とある国の姫さんに横恋慕した阿修羅を退治してくれと姫の親父が帝釈天に頼ったとかよオ……」
「色恋沙汰というわけですか」
「まあ有体に言っちまえばそうなるわな」
男は声をあげて笑う。愛想のなさすぎる緋村の態度のことも笑っているのだろう。耳障りではない程度のはずなのに、馬鹿にされているように思われてどうも気分がよくない。この男はどうしてそんな話を緋村に聞かせたがるのだろう。
「この阿修羅ってのは元々悪い神さんじゃなかったんだがよ、いつの間にか悪者にされちまったんだ。しかもくそまずいもんしか食えない世界に落っことされちまった……」
「悪い奴じゃあないのに?」
「ずっと戦いを仕掛けるからだよ。ずうっとな。その内許すことを忘れたから悪神にされたらしいが、俺はこういう解釈は好きじゃねえ」
「解釈、ですか」
「阿修羅は女のために喧嘩を吹っ掛けたが、段々その女のことを忘れちまうんだ……喧嘩が好きすぎてな、そっちにばっかり頭を回しやがって、その内自分が喧嘩を吹っ掛けた理由も分かんなくなっちまったっていう奴もいるんだよ。俺はそいつの言う方が好きなんだ。その方がそそられるだろ」
「俺はそう思いませんが」
「そうかあ? 俺はおめさんがいつかそうなるんじゃねエかと思うとぞくぞくするぜ」
その時緋村はぼんやりと見ていた男の顔をはっきりと見直した。男は酒が回っているらしいが、随分と冷めた目でこちらを見ていた。それは緋村の振るう剣よりも冴え冴えとしていて、酒の席だというのに緋村の心の臓がきりきりと締め付けられているようであった。殺気はない。だが穏やかでもない。
「おめえさんは阿修羅だよ、おめえさんがどう思っていようともな」
酒をあおる男の顔を見れない。雪の日の思い出が頭をよぎる。この男は緋村が犯した罪を知っているというのか。あの女を知っている者はもう殆どいない筈なのに。元治元年末の事は桂しか知らない筈なのに。
「俺は、忘れたりしてません。許さねばならないこともありません」
それだけを言い捨てると緋村は席を立った。初めて心から人を斬りたいと思った。それは酷く暗い井戸の中で暴れのた打ち回るような気持であった。
