うきくさのゆめ

 女をひとり置いてきた。萍水の己には何もないのがよい。流れ流れて、足の赴くまま、風の誘うまま、あちらへ寄っては、こちらに向かい、その日の宿はその日次第。その暮らしには重い荷はどうも宜しくないから、刀と路銀を少々、旅をするに要るものがあればそれでよい。
 旅の連れはない方が気楽である。稀に道中を共にする人もあるが、すぐさま別れて互いに忘れ去る。通り雨が過ぎるのを待つ間に少し話をする程度の縁の人もいるし、茶屋で長い昔話を聞かせる老人の相手をすることもあるが、それもほんの僅かな時の中のことである。
 己のことを知る人はあまりいないほうが良い。明治になってから知り合いらしい知り合いは作らない。明治前の知り合いとは顔を合わせることない。女を殺して五年の時が経ち、漸くお役目を終えた己が十年の間に何をしたのか具に知る人はない。その方が良い。
 幾度となく思う、何年も同じところで同じことを繰り返し、己の過去を知る人が増え、人に知られる己の過去が増えることは、望んでいないと。小心者の己にはどんな辛く厳しい修行よりもそれが恐ろしく思われる。挨拶を交わし、どこどこの誰々がどうしただとか、昨日はどうだったかとか、明日はどうしようとか、そういうことを普通に話すことが出来ない。用がなければ他人と話すこともできない己が、市井の人々に交じることなど出来やしない。飯の支度があると言って慌てたり、新しい着物が欲しいと悩むこともあまりない。ましてや茶碗を求めて店を尋ねることもないし、家具の不具合にどうしたものかとため息をつくこともした試しがない。
 故にあそこでの出来事は、夢か幻、狸か狐に化かされたようなもの、結局己には不相応なものである。旅に疲れたと言い訳をして、人の良い娘の優しさに甘えて、挙句の果ては娘の助けなどして、甘やかすなどもした。あまりの居心地の良さに、大切な事を忘れていたのだ。
 京で出会い、大津で死んだ女が夢に現れる。東京を離れてから度々顔を見せる。なんとも言い難い様子で、何かを言いかけては何も喋らぬ。責めるような目で見る。君とて、俺が女一人守れぬ弱い男だと知っているだろうに、と己の口からこぼれた言葉を聞いて、女は眉を顰める。だが何も言わぬ。死人だから当然である。あるいは己が女の声を忘れたから、女は何も言わないのかもしれぬ。香りだけが女との日々をふたたび己に思い出させるものだが、それもないのに、何故こうして女の姿がはっきりと見えるのか。向かう先が京だからか。この十年避けてきた京だからか。墓も参らぬ己に怒っているのか。そのようには見受けられない。
 あなた、とその口が動く。手には藍色のりぼんがある。女が持っていたわけではないと知っている。死んだ女のものではない、置いてきた女のものだ。何故、と不覚にも後退りする。置いてきたのだ、何もかも。置いていかねばならないのだ。君とて、俺が女一人守れぬ弱い男だと知っているだろうに、ともう一度吐く。女はりぼんを差し出す。己は動けぬ、何かに縛られたように、一歩も、それどころか、瞬き一つできぬ。
 あなた、と女が口を動かす。その目が己を責めている。後ろからは別の女の啜り泣く声が聞こえる。あの時は段々とその声が小さくなったのに、今は段々とその声が大きくなる。はたまた、別の女の声が聞こえる。この世では己と師しか知らぬ名を呼ぶ声が聞こえる。最期の言葉が何度も繰り返し聞こえる。責める女、泣く女、願う女の、三者が己を縛る。やめてくれとは言えない。だけれども、如何ともし難いのだ、死ぬ覚悟で向かわなければならないことも、女を置いていくことも、それぞれを思ってこそなのだ。
 不意にそれは本当か、と尋ねるものが現れる。姿は見えない。だが再び尋ねる、それは本当かと。言葉に詰まる己に、姿の見えない誰かが嘆く。あなたは何も知らない、あなたは何も分かっていないと。
 眩しさに目が覚める。日の出である。鳥が囀り、人々が起き始める。京まではまだ遠い。早く行かねばならぬと立ち上がる。誰かに見られている居心地の悪さを無視して、歩き始める。成さねばならぬ事の前に、なんて夢を見たことか。置いてきた女の、泣き声がまだ耳に残っているが、この声も直に忘れることだろう。その頃には女もまた己のことを忘れるだろう。
 そうして何年も過ごしてきたというのに、胸が痛む。あの時抱きしめた浅はかな己が憎い。だが、抱きしめられずにいられなかった。相反する心に、刀を突きつけて殺してしまいたかった。
 何を言おうと己はこの世で最も愚かで卑怯な男なのだ。