話に聞いていたように、その男は鄙びた村の中でも更に外れたところに居を構えていた。一人で住むには少々広すぎる家で、日々を過ごしている。朝から晩まで家畜の世話と狭い畑の面倒を見て、合間に読書をするだけの静かな生活だ。噂とは全く違う姿に拍子抜けする。これがシェーレグリーンの悪魔だというのだから、村の連中は随分と被害妄想が激しい。男は誰とも関わることなく、一人の生活を繰り返しているだけだ。
酒屋で聞いた話では、目が合うと破滅させられるから近付いてはならない、村長の娘から始まり、薬屋の息子も、郵便屋も、誰も彼もがあの家に近付いて彼止めを合わせて会話してからおかしくなったということだった。女だけなら若い娘が愚かだっただけだろうと気にも止めなかったが、老若男女かかわらず、その男と目を合わせて会話した者は彼に更に近付こうとし、彼に話しかけ、彼に物やら金やらなんでも捧げるようになる。しかしながら、その男は一切を受け取らない。だから彼が何を気に入るのかとあらゆる物を贈ろうとする。処女、家、我が子、店、財産。狂っているその様を見て周囲は止めようとするが、あの悪魔が受け取らない以上、彼らは止まることができず、最後には破産したり、これまでの関係を破綻させたりする。破滅以外の結果で終わったものは誰一人いないと酒場の店主は言った。彼の息子は行方知れずになったらしい。
それで態々行き先を変えてまで村の端まで寄ったというのに、誰も彼もが近寄らないせいで悪魔の悪魔たる所以を見ることができないでいる。
悪魔と呼ばれているくせに随分と美しい顔をしていた。あるいはあの美しい顔で人を惑わせるからこそ悪魔なのか。どちらにせよ、規則正しく動くだけのただの美しい人形を見る趣味はなかった。暫く観察していたが、どうしても必要があってか、村の人間が寄る時は彼と一切目を合わせようとしないか、彼が玄関から遠く離れた裏庭の手入れをしている時に物を置いていくので、彼が人と接触している所は見られない。
悪魔なんぞこの世にはおらず、報いを受けるべき人間も報いを受けることはないため、宿儺は非現実的、或いは妄執的な単語は好かなかったが、それだけの悪評が立っている男というのには興味があった。村の連中は信仰に厚いが、悪魔を追い出す勇気はないらしい。あの悪魔を差し出そうとしたら殺されるのではないかと神父まで怯えているそうだ。馬鹿馬鹿しい。目に見えないものは存在しないのと同意義である。感情も何もかも全て目に見えないのならば在るとは言えない。だから、悪魔などではなく、この男が心底性根が悪く、関わるもの全てを破滅に招くような文言を巻き散らかしているのではないかと考えていた。目に見えないものは存在しないが、言葉は人を惑わせる道具であるとして宿儺はその有用性を認めていた。だから、あの男が一言喋るだけでも何か分かるかと思ったが、独り言すら言わないので、到頭飽きた。見るに値しないものに時間をかけてしまった。随分な損失だ。これを理由に何か酒屋から奪ってやろうかと考えていたとき、シェーレグリーンの悪魔は宿儺を見た。
真正面から見たことがなかったから驚いた。悪魔は名の通りの瞳の色をしていた。鮮やかな化け物の色だ。毒素を振りまき、人々を死に至らせる魅力がある怪しく美しい瞳だ。まるで、シェーレグリーンをぎゅっと固めて宝石のように輝かせたような瑞々しさと艶めかしさには言葉が出なかった。
「最近、うちの周りをうろちょろしてるのはアンタか」
「それがどうかしたのか」
悪魔は普通の青年のようだった。少々警戒心が強そうなのに、何故か気を許されているように受け取れる声色だった。
「この家には何も盗るもんなんてねえぞ。時間の無駄だ」
「強盗に話しかけるとは恐れ入った。それほどの剛腕には見えんが」
「いや、誰かと話したくなっただけだ」
だから神経質そうな目をしていながら、態度がそのように見えないのか。
「強盗じゃないなら寄ってけ。作りすぎて腐らせそうなんだ」
男――伏黒恵の家の中は雑多なものに溢れていたが、どれもこれも酒場で聞いたようなものとは程遠い質素なものばかりだった。生活に必要なものを積み上げているだけの、人の心が挟み込まれない物ばかりの家だ。家の中は大抵個性が出る。物を選ぶ基準や、物の置き方一つとっても、ひとりひとり異なるもので、同じ家で育った兄弟ですら全てが同じということはない。宿儺は色々な人間を見てきたが、伏黒恵という男をどのように見るべきかはかりかねた。
男は本当にただ作りすぎたらしいシチューをよそって、宿儺に与えた。美味くも不味くもない、一般的な家庭料理だった。男の一人暮らしならこのくらいだろうという味だ。体が大きいんだから沢山入るだろうと言われて、沢山食わされたが、その間にぽつぽつと言葉を交わすことで、男の目的を果たしていた。
食べ終わった後、男は引き止めることなく、出ていこうとする宿儺を見送った。
翌日から、宿儺は伏黒恵に話しかけることにした。何も持たずに訪ね、料理を振る舞われ、一言二言喋っているだけで、他は何もしなかった。男に欲しい物があるかと尋ねるようなことはしなかったし、それどころか、可能な限り一方的に喋った。自分でも信じられない行動を取っているからだ。
そのうち、訪ねている間に嵐が来て村の宿に帰れなくなった夜、伏黒恵と体を重ねた。随分と心を許されているような気配はしていた。何となく距離が近いような予感もあったが、初めて宿儺は抱くべきかどうかを考えたが、艶めかしい緑が宿儺を絡め取って、その瞳に沈み込ませた。
暫くして宿ではなく伏黒恵の家に住み、周囲からは夫婦のように扱われ、伏黒恵の代わりに村とのやり取りをせざるを得なくなった頃には、村の連中も当初よりは警戒を解いていた。だからといって、油断しているようではなく、恐ろしい容貌の宿儺がシェーレグリーンの悪魔を封じ込めて、伴侶にしたということになっていて、結局伏黒恵へ接触しようとはしなかった。宿儺もあの美しい容姿に無闇矢鱈と惚れられては面倒なので、その噂や妄想を訂正するようなことはしなかった。
数年後、村の殆どが焼けてしまったのは、偶然だったと思いたいが、焼けて死んだのは、宿儺が関わったことのある人間だけだった。人間嫌いの宿儺は元からそれほど交友を広げず、話が通じる相手と最低限やり取りが必要な相手に絞って関わっていたし、向こうもそのようにしていた。
外れにあった宿儺と恵の家は何事もなかったように無事で、地獄のような村の中心部から帰ってきてその家の様子を見ていると、まるで時間が止まった別世界のよう思えた。火事に巻き込まれ、後始末まで手伝わされた宿儺にしてみれば、全く被害のない恵の家がいっそ奇妙に思えた。
いや、この家は風上にあって、火が煽られなかったことは間違いなかったし、近隣に家もない。地続きだからといってこちらまで燃え移るとは限らないから、この家が一切の被害を受けていないのはありえないわけではない。
「宿儺……どうしたんだ?」
畑仕事を終えた恵がこちらに駆け寄る。シェーレグリーンの瞳が、しっかりと宿儺を見ている。姉を失った悲しみを宿儺が癒やしてくれたと話した頃から、随分と感情豊かになった。村の連中の話を聞きたがるようになったのもその頃だ。気になるくらいなら自分から行けと言ったが、宿儺の口から話を聞きたいのだと恵は静かに強請った。
この男は、ただ普通に生きているだけなのだろうか。本当に? 少なくとも本人はそのつもりだ。誰も恨んでいる様子ではなく、この家から出ることもないというのに。何故か人が死んでいく。
宿儺はシェーレグリーンの悪魔を抱きしめて、その瞳を見ないようにした。

