5回目の大噴火
一泊二日の出張から帰ってきた恵は自宅に対する違和感を覚えた。何だかモヤモヤする、なんだ? と家の隅々まで調べた後、思わず着の身着のまま飛び出していた。
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恵が家出をしたらしいというのを聞いて、甚爾はへえとしか思わなかった。同じ男と何回もくっついては離れてを繰り返して漸く結婚したのにまた別れようとしてるのか。忙しねえ奴だなと欠伸する。
津美紀はあちこちに電話を掛けて恵の夫共々探し回ってるみたいだったが、「探すな」というメッセージを残して、財布もスマホも置いて出て行ったのだから、探さなければいい。その内腹を空かせて出てくる。
「お父さん! 恵、函館にいるんだって!」
「へえ」
「冬なのに薄着だからって気にかけてくれた人がいたみたいなの! しかも何か思いつめた顔してたらしくて」
お父さん、迎えに行ってねと津美紀に金を持たされ、婿から手配された飛行機のチケットを握らされ、機上の人になってしまった甚爾はただで観光できると思い直した。津美紀と婿は仕事をどうしても抜けられないらしい。無職かつ馬か艇か自転車のどれかに行こうとしていた甚爾しか体が空いてなかった。しゃーねえ、と約二時間後に函館に着いた甚爾は津美紀に教えられた場所に向かった。
果たして息子は、不機嫌な時の嫁とそっくり同じ顔をして海を睨んでいた。周りは恵と甚爾がそっくりだというが、表情は嫁に似ている。この面、苦手なんだよなと嫌々ながら声を掛けると、こちらを少し見てから、大きな溜息を吐いてまた海を睨んだ。眉間の皺が刻み込まれそうだ。怠すぎるから帰ろうかなと悩む。そもそもなんで迎えに来てやらねばならんのだ。これは名前も顔もよく覚えてない婿のやる仕事じゃないのか。
「宿儺は」
「は?」
「宿儺はどうした」
「誰だ、そいつ」
「……息子の夫の名前くらい覚えとけ」
「男の名前覚えてどうすんだよ」
「あんたに人並みのこと期待するのが間違いだったな」
はあとまた溜息を吐かれた。息子が可愛かったのなんて、意味のある言葉を喋りだす前までのことだ。それ以降、息子は父に反発する。
怠いが勝ったので、甚爾は踵を返そうとして、恵の顔を見た。
怒ってる。不機嫌。海を睨んでいる。着の身着のまま飛び出して、財布もスマホも持っていない。冬の海を見て何を考えている?
「何してえか知らねえが、ここで死んでも俺はお前の死体なんざ持ち帰らねえぞ」
「親の言うセリフか? 心配すんな、頭冷やしてるだけだ」
冬の北海道なんて頭どころか体を冷やして風邪引くだけだろうが。考えるのも面倒になって、婿が寄越したらしい恵の上着を投げてやったら、その上着を叩きつけた。なんだ? 物を乱暴に扱う奴ではないのは知っている。
「……何見てんだよ」
「凍死してえのか」
「そのコート、見てるだけでムカつく。あんたの寄越せ、タバコ臭い方がマシだ」
マジで甚爾から上着を剥ぎ取り、着込んだ恵はまた海を睨んでいる。何がなんだか分からんが、これ以上一緒にいても損するだけではなかろうか。大体、恵のコートは甚爾には少し小さい。寒いだけで既に損だ。意味わかんねー。しかも「加齢臭かこれ」とまで言い出しやがる。ここで恵をボコると嫁と津美紀がうるさいから殴らないだけだ。
「じゃあな、これお前の帰りのチケットらしいぜ」
婿の手配したものを上着のポケットにねじ込んで、立ち去ろうとしたが、恵が甚爾の上着の裾を握って引き止めた。
「……腹減った」
くうっと恵の腹が鳴った。
適当に安い居酒屋に入ると、個室のテーブルに座った。函館らしく海の幸が美味そうである。恵は日本酒を、甚爾はウイスキーのロックを頼んだ。おでんやらほっけやら、目についた限りを頼む。金が足りなくなったら婿に請求してやればいい。裁判官なんて金持ちの男をよく捕まえたもんだな、と息子の運の良さを羨む。そういえば、恵を連れ帰れば言い値を支払ってくれるのだった。忘れていた。
「なあ、素人でもパイプカットできると思うか 」
口に含んでいたウイスキーが変な所に入って噎せた。発言した恵は至って真剣な――いや、大分据わった目をしている。酔っぱらいではない。変な覚悟を決めている。
「うまく抑えつけねえと暴れるぞ、手元狂ったら殺しちまうかもな」
「そっちも考慮しなきゃなんねえか……感染症とかどうだ?」
「知らねえよ。何使って切るかだろ。消毒しときゃいいんじゃねえの」
「お前適当だな」
無職であるということになっているはずなのに、なんで息子にこんなこと聞かれてる? バレてるはずがないのだが、と内心警戒しながら、誰のパイプをカットする気なのかを聞き出さなければならない。恵の性格から言って、甚爾ではないことは間違いない。加害対象に少しでも情報を与えるような馬鹿な真似はしないはずだ。じゃあ誰だ、この男にイチモツを切り落とされそうにってる奴は。
「相手は誰だ、金次第では手伝ってやるよ」
「宿儺」
それはちょっと前に聞かされた婿の名前だったはずだ。は? と疑念を隠さないでいると、「浮気しやがった、あの野郎」と恵が人を殺しそうな顔で宣った。おお、これは自分とそっくりな顔をしてると甚爾は驚いた。
「それで? パイプカットしてたんまり慰謝料もらって円満離婚か?」
「離婚はしない。だけどこの先どんなやつも抱かせやしねえ」
ブチ切れてるらしく、酒を煽っているのも加わって先程よりも凶悪な顔をしている。例の男と別れるたびに落ち込んでいた小心者とは別人に見える。ここまでキレてる奴を飛行機に押し込んで連れ帰るのは普通に面倒くさい。だっると何回目かの思考放棄のタイミングでスマホが震えた。画面に表示されてるのは津美紀だ。面倒だったのでスピーカーにして通話する。
「おい、捕まえたけどなんかキレてっぞ」
『何? 恵、どうかしたの?』
「浮気したらしいぜ、ムコ殿」
『ええっ? それ本当?』
根拠を聞かされていないので本当か嘘かなんて分からないし、甚爾にしてみればどうでもいい話であるが、スピーカー効果のお陰で恵が苛々しながら根拠を語り始めた。
まず、家の中に知らない匂いがあったこと。風呂場の排水口に宿儺のでも恵のでもない、色素の薄い長い髪の毛があったこと、あまり使ってない離れのベッドのシーツが新しくなっていた事などを捲し立てる。
店のババアが心配そうにこっちを見てるので、へらぁと笑って誤魔化した。怖えよ、うちの息子。荒れてた時の方が可愛く見える。
『恵』と知らない声が割り混んだ瞬間、恵の顔がめちゃくちゃに歪んだ。
『切るな。よく聞け。今から俺はお前を不安にさせた男を殺してくる。俺が刑務所に入っても待っていろ、必ず戻る』
「えっ」「はあ?」
待て、と恵が声を上げる前に電話が切れた。呆然としている二人の目を覚ますかのようにもう一度電話が繋がったが、津美紀が「恵! 宿儺さん止めて! 本気だよ!」と悲鳴を上げているし、後ろで複数の男たちが騒いでいるのが聞こえる。恵と甚爾は多分生まれてはじめて心が通じ合った。何が起きているんだ。
恵曰く婿が浮気した。風呂場に知らない髪の毛も落ちてた。なのに婿は今から恵を不安にさせた男を殺すと宣言している。どういうことだ。
とにかく、恵がスマホに向かって「お前こそ待て、ステイ!」と犬の躾みたいに叫んで止めたことでなんとか収まったらしい。店のババアが、今度こそ何事だとこちらを睨んでいたのでさっさと金を払って店を出た。酔いなんて全部吹き飛んだ。
東京に戻った時点で何一つ情報の整理がつかず、元々無口な親子は更に無言となりながら、恵とその夫の家に向かった。婿の殺人は未遂になったという連絡は受けている。
果たして、家にいたのは津美紀と顔のよく似た男二人、茶髪の女、五条と全く知らない長髪の男だった。こいつか、婿の浮気相手。顔に手術痕が残ってるが、それ以上に表情が気持ち悪い。男は後ろ手で拘束されている上に正座をしている。その男の後ろでやたらと怖い顔をした男が高そうな包丁を男の首にピッタリと添えていた。
「恵、お前の前にこの男の首を晒すつもりだったが止められたので叶わなかった。すまん」
あの宿儺が謝ってると後ろがざわついているが、甚爾はこの強面が息子の夫かとびっくりした。面はいいが、何分目付きは悪いし態度はでかいし他人を威圧しまくりである。こんなの選ぶなんてマゾなのかと息子の性癖を心配した。
「いや、どういうことが説明してくれ。こいつ誰だ」
「あ〜〜〜ごめん、そいつ俺のストーカー」
愛嬌のある男が謝っている。さらっと告げられた言葉に、甚爾はもう面倒くさいが限界を超えたので、適当に高そうなソファーに寝転がった。
要するに、婿の弟のストーカーが、弟の実家であり、現在恵と婿が住んでいる家に不法侵入した。婿が発見した時は離れのベッドの上で弟の私物を眺めていたらしく、婿はそのまま侵入者をしこたま殴り、床に何度も頭を叩きつけて、散々痛めつけた後、外に放り出したらしい。血で汚れたシーツを引っ剥がして新しくしたあと、シャワーを浴びて不貞寝していたそうだ。髪の毛が落ちていたのは、頭を掴んだ時に爪に髪の毛が引っかかったからだろうとのこと。知らない匂いはこの男のものに違いない。
恵の電話を受け、婿はこの男を殺して晒し首にしなければならないと強く反省し、公園で回復しようとした男を再度捕獲、見事恵の前に引きずり出したのだ。
恵は弟の事を信用しているので、婿と弟が口裏を合わせている訳ではないと結論して、婿に誤解した事を謝っていた。
恵は恵で、浮気されたと思い込んだ後、着の身着のままで飛び出してヒッチハイクして、甚爾のギャンブル仲間が運転している車に偶然乗れたので、函館まで運んでもらったのだそうだ。何故函館と津美紀が尋ねたら、修学旅行での思い出があるとか何とか。とにかくその言葉で婿の厳つい顔がやわらかくなった。昔なんかあったんだろう。知らんが。
茶髪の女が「お前らの大事件はだいたい茶番で終わる」とバシッと言い去っていった。
甚爾にとってはムコ殿にどれだけの額を請求しようかと悩む方が有意義だった。
