5回目の正直
恵と宿儺の付き合いはかなり長い。今年で十年目になる。その間、恵は五回交際した。相手は全て宿儺である。
まず初めに、高校一年生として校舎に足を踏み入れた時、宿儺を見かけて目を奪われた。胡桃色の髪と鋭い目つきから、品行方正とは言えないことは一目瞭然だったし、実際恵は顔をしかめて関わり合いにならないようにしようと決めたはずだったのだ。
その後、双子の片割れである悠仁と友人になっても宿儺とは全く接点を持たなかった。宿儺は学校にあまり来なかったし、女もとっかえひっかえで、およそ人が思いつく限りの悪行全てを犯していた。
なのに、恵は遠くからでも宿儺の姿を見付けることができた。悠仁と宿儺の後ろ姿も判別できたし、話していればすぐに耳にその声が届いた。
暫くして、宿儺が女生徒を連れ立って歩いているのを見て少なからずショックを受けた。その時まで、女遊びが激しいという噂を聞いていただけで実際の場面を見た訳ではなかったから、現実味がなかった。しかしこの目でしかと見たのだ。宿儺にとってその相手が本気でないのは明白だったが、それでも相手をするくらいには気に入っているのだと考えると吐き気がした。そこで漸く、恵はその女生徒のみならず、宿儺が相手するもの全てが羨ましく、同時に妬ましいのだと気付いた。
とにもかくにもこんな気持ちは抱くべきではないと勉強とバイトに専念した。忘れなければならない。あんな男に心を奪われていいことなんてあるはずがない、と寝る間も惜しんで勉強に励んだ結果、期末テストで宿儺を抑えて最高成績を収めた。この時も教師との話題で宿儺の名が出てきて少し胸が苦しかったが、奨学金制度のことを考えて気を紛らわせた。何とかして気持ちは落ち着いてきたし、出来る限り宿儺を視界に入れないようにしていれば、泣きたくなるような思いもしなくなった。
一学年が終わる頃、宿儺が恵と接触した。悠仁と会話している所に宿儺が割って入ってきたのだ。恵は兄弟で話したい事でもあるのだろうと遠慮して離れようとしたのに、宿儺に腕を掴まれた。その後、何か会話したはずだったが、記憶にない。何故なら公衆の面前で口付けされたからだ。パニックと羞恥心で宿儺の頬を拳で殴り飛ばし、腹に蹴りを一発食らわせて走り去ったと悠仁に説明されたので自分が何をしたかは知っている。
二学年に上がった頃、宿儺と恵は正式に互いの同意の上交際を始めた。これに周囲――特に悠仁――が驚愕と疑問と不審で主に恵を問い詰めた。本気なのか、まともな頭で判断した結果なのか、罰ゲームならやめろ、脅されていないか、警察に行くなら付き添うなどと言われ続けたが、恵は全て無視したしノーコメントで強硬した。説明しようにも恵にだって自分の心が分からなかった。本来なら嫌悪を抱くような、悪人そのものの筈なのだ。他人を平気で傷付け、虐げ、女関係も乱れていたし、最低最悪の男だと分かっている。なのに、二人で過ごしている間はとても穏やかで、物静かで、優しかった。図太いばかりと思っていたが繊細さも持ち合わせ、一度やると決めたことを必ずやり遂げる意志の強さとその為の惜しげもない努力を見るに連れ、恵はますます目が離せなくなった。勿論人間として駄目な所は駄目だったが、それでも宿儺の魅力は損なわれないと感じる程になってしまっていた。
三学年が終わり、卒業する時に恵から別れを切り出した。宿儺と別れ話をした時は色々御託を並べたが、結局の所怖気づいたのだ。この魅力的な男の隣にふさわしくない、いつ捨てられるのか分からなくて不安になる。それならいっそ別れよう。そんな怯懦にまみれた恥ずべき選択だった。
宿儺はあっさりと了承した。惜しむ素振りすら見せず、「そうか」の一言しかなかった。恵は何にも手がつかない状態で三日過ごしたが、新生活の忙しさで全てを紛らわした。
しかし、大学に馴染んだゴールデンウィークの最中に恵は宿儺と再会した。宿儺からの誘いで、恵が興味を持っていたカメラマンの写真展のチケットを偶々手に入れたと言われた。落ち着かない心臓を抑えつけながら、恵はその誘いに乗った。
再会したその日、恵は宿儺と寝た。高校生の頃はキス止まりだった拙い交際が、大学生になったからといって一息にそこまでいくかと後から反省したが、写真展の後、食事を共にし、帰る道が所謂ラブホ街だったことに気付いた時には遅かった。駅までの最短距離がそうだっただけで、下心だけではなかったのは百も承知である。
宿儺はきちんと逃げ道を用意してくれていたと恵も分かっている。このまま帰るか、と提案もされた。二人共未成年だったので酒も口にしていないから素面だった。それでも恵は宿儺と一緒にホテルに入った。それが答えだった。
なし崩しでよりを戻したが、多才な宿儺の隣りにいるのは苦しかった。宿儺は恵にも才能があると言ってくれたし、遠回しながらも応援してくれたりもした。そうされる度に、宿儺の高め合うべき相手は自分ではないのではという疑念が恵の首を絞めた。宿儺はそういうタイミングで恵をやたらしつこく抱いた。抱かれた時の幸福感がしばらく続くと後ろ向きな考えも鳴りを潜めたが、どうしても心の何処かで疑念が残っていた。
二回目に別れたのは大学三回の時だ。恵の感情が高ぶって一方的に別れを告げて逃げ出した。しかし一週間後に宿儺の家に置いていた私物を回収する時に話し合ってまたよりを戻した。この時、野薔薇にこっ酷く叱られた。
三回目は社会人になって暫くしてからだ。仕事が忙し過ぎて宿儺を蔑ろにしてしまうことが申し訳なくて、社会人二年目の春、三ヶ月ぶりに会った時にまた別れを提案していたのである。この時の別れはそれなりに長く続き、一年後に再会してまたよりを戻した。恵の配属先が変わって残業が減ったのがかなりの大きな要因である。
四回目は転職すると決めた時だ。転職する事だけは決意していたが、その先がまだ見つからず、それでも今の会社にいるのは限界という状態で、宿儺にはこんなにフラフラしている奴など似合わないと結論したのである。将来性もない男なんてろくでもない。
ただ、これもあっさりと承諾された割によりを戻すのも早かった。これが今までの経緯である。
通算五回目の宿儺との交際においては、流石の宿儺も「この次はない」と断言した。
「次にお前が別れると言い出したら、それ相応の対応をさせてもらう、覚悟しろ」
その事について話せば、今までの事を知っている人全員に「よくまあ宿儺が我慢できたものだ」と感心される。
「宿儺に脅されたの初めてなんだが」
恵の困惑した顔に「パパにも殴られたことないのにってか? 甘えんな」と野薔薇に怒鳴られた。
「いやまあ、あいつ伏黒にだけはゲロ甘だけどさ、言いたくなる気持ちわかるよ」
当初、宿儺との関係を大いに気に病んでいた悠仁は現在、宿儺の方に同情的である。三回目くらいから「伏黒の自信のなさはどうにかしたほうがいい」とはっきり言うくらいだ。
「何回茶番を繰り返しゃ気が済むのよ」
「茶番ってつもりじゃ……」
「一週間しか別れてなかったときあっただろうが! 今回も一ヶ月だろ! いい加減飽きたわ!」
宿儺の野郎も何考えてんのよと野薔薇が唸る。それは恵も知りたい。どうして別れたくせにまた恵に会おうとするのか。何度も何度も恵を選ぶ理由は何なのか。宿儺ほどの男ならどんな相手でも選ぶことができる。職場の上司からお見合い話を持ち掛けられているし(全部無視してるようだが)、恵に拘る必要はない。
「とにかくさ、伏黒も転職先見つけた訳だし、これからちゃんと宿儺と向き合えって。あいつ、マジで伏黒のこと好きだし」
既に結婚して実家を出た悠仁は、宿儺と恵が半同棲状態なのも知っている。土日は基本的に宿儺の家で過ごしているので、向き合う時間は確かにある。あるはずなのだが、恵が話し下手なのであまり会話はない。それでも居心地がいいのだが、確かにちゃんと会話することで向き合うべきなのだろう。
「宿儺がだめなら他はどうなのよ」
野薔薇の大変不機嫌な顔に、これはさっさと白状したほうが怒られないなと直感した。どちらにせよ怒られるとは思うが、黙ってるのが一番悪手だろう。
「……一回、マッチングアプリ使った」
おおおと悠仁と野薔薇が過剰反応した。恥ずかしくて逃げ出したくなったが、この二人がそれを許すとは思えないし、宿儺と恵の喜劇にずっと付き合わせているのだから、多少我慢しなければならないだろう。
「伏黒に出会い系ってマジ似合わねえな」
ヤケクソのなせる業だったのだ。あの時は自分が自分でなかったのだ。
「いつ、どんなのと会ったのよ? 洗いざらい吐け」
「宿儺と一年くらい会ってなかった時に、何人かとやり取りして、会ったんだよ。でも二回目は全然なかった」
宿儺を諦める為に男とも女とも会ったが、どうにもしっくり来なかった。恵は容姿を褒められると居心地が悪くなるし、あまりにも表面だけしか見られていないと感じるのも苦手だった。一回しか会ってないのだからそれも仕方無しと割り切るべきだったのに、会話の途中や食事の最中に宿儺の振る舞いを思い出しては「宿儺なら」などと勝手に比較してしまったのも駄目だった。勿論相手に対して失礼なのも自己嫌悪に陥らせたし、何より、誰と会っても宿儺を思い出すなら、会わない方がいいと結論したのだ。
「会社の先輩のお気に入りの相席屋とかラウンジバーまで行ったんだぞ、それでも結局駄目だった」
「相席屋! お前、金出して女の子と食事したわけ!?」
「そういうのは全部男側の負担なんだよ、出したくて出した訳じゃない。如何わしい言い方すんな」
「いやいや、普通にアコギな商売じゃん」
確かにこれはキャバ嬢を雇わない代わりに料金が安くなっているキャバクラと言えるのではないかと虚しく思ったりもしたが本題はそこではない。貰った連絡先のどれにもメッセージを送る気にならなかった。メッセージアプリの下の方に追いやられてしまった宿儺のトーク画面をタップしようとしては、やめてを繰り返していたのが問題なのである。結果としてまた付き合っている訳だが。
「……何を覚悟しないといけないと思う?」
「そもそも別れようとすんな。腹ァ括れよ」
野薔薇の一喝に恵は「そうできないから困ってんだろうが」と内心反論した。口に出せばもっと怒られるのは明白だ。
宿儺の隣りにいて、傍にいる時間が積み重なるほど惨めな気持ちになるのは恵だけなのだろうか。世の恋人達は求められる度に本当に自分でいいのかと不安になったりしないものなのだろうか。充分に満足させられている自信があるのか。凝った料理も作れないし、家事も手伝い程度にしかできないし、宿儺のメリットになるようなことはできていない。夜の誘いだって宿儺からばかりで、恵からは数えるくらいしかない。飽きられたり、失望されたりしないかと不安になる。それがピークに達すると別れたくなるのだ。
恋人でなくなれば不安からは解放される。ただし、今度はふとした瞬間に宿儺を思い出しては落ち込むのだ。一年離れていた時、年始の挨拶のスタンプさえ送れず、なおかつ向こうからも何もなかった時、恵は正月痩せをした。その話を聞いた時、野薔薇が「中毒者か?」と評していたが、ちょっと近いものはあると思う。
唐突に、逃げ道があるから逃げるのではと閃いた。退路を断てば流石に別れたくなっても別れられないのではないか。恋人関係は気軽に絶つことができてしまう。ならば、と恵は皆との食事を終えたあと、真っ先に役所に向かった。
翌日、宿儺に大事な話があると切り出したら、めちゃくちゃ嫌な顔をされた。毎回この切り出しで別れ話をしていたからだろう。もうちょっと言い方を考えればよかったと反省しつつ、リビングのテーブルに向き合って座る。
「違う、大丈夫だ、今回は、その、違うから」
「何が違うという? 覚悟はできているんだろうな」
宿儺が職場である裁判所で閻魔大王と呼ばれていることを今思い出した。この顔を前にすればどんな人間も沙汰を待つ罪人の気持ちになる。恵は自分の思いつきに対する自信をすっかり喪失しながら、一枚の紙を差し出した。これで首が繋がるといいのだが。
宿儺は紙を見て、それからたっぷりだんまりを決め込んだ。実際の時間経過がどのくらいかは分からなかったが、恵にしてみれば永遠に終わらないと思われるような沈黙の後、「何故これを?」と宿儺が口を開いた。
「……いつも別れたくなるのは、簡単に関係を解消できるからなんじゃないかって反省したんだ。お前のことを嫌いになったことは一度もない」
だから恵の名前を書いた婚姻届を宿儺に見せたのだ。結婚してしまえばどれだけ別れたくなっても踏みとどまれる。そこまでしないと衝動的に飛び出してしまいそうなのもどうかとは思うが、今の恵に思いつける別れないための方法はこれしかなかった。
「情けなくてごめん。それでもよければこれにお前の名前書いてくれ」
話している内に今すぐこの場を離れたくなったが、今まで四回も恵の身勝手な振る舞いを許してくれた宿儺に対しての誠実さと礼儀のために何とか動かないでいれた。
果たして、宿儺は大きく溜息を吐いて、「こんなはずでは」と嘆いた。途端に恵は席を立とうとしたが鋭く座れと命じられた。やはりもう愛想が尽きたか。ここまでしなければ覚悟も決められないような情けなさに失望されたか。
青褪める恵を裏切って、宿儺がゲラゲラ笑い始めた。
「お前は時に俺の予想を超えるな」
「そ、そうか……?」
その言葉は時々聞かされた事があるが、明晰な宿儺の予想を超えるような出来事なんて自然災害くらいだ。まさかそれくらい恵の行動は突飛なのか。
宿儺が徐に立ち上がり、自室の引き出しから箱を持ってきた。
「お前に先を越されるとは」
差し出された箱の中にあるエメラルドが輝く指輪を見て、恵は宿儺を二度見した。
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「よおおやく結婚したわけか、おめでと」
「おめでとー! 式いつか教えろよ!」
高校の時から長く続いた恵と宿儺のあれやこれやをずっと近くで見てきた悠仁と野薔薇は、結末に対しても祝福してくれた。接着剤で永遠に取れないようにしてやろうかと思ったと何度も言われ続けた関係もなんとか決着がついてよかった。
「あんた、あんなに別れたがるくせになんで結婚しようなんて思ったの?」
野薔薇の疑問は尤もだ。恵とて追い詰められなければ思いつかなかったアイデアだ。
「調停委員を巻き込んでまで離婚したいとは思わないだろうから、結婚して退路を断とうと」
「めちゃくちゃネガティブな理由だな……」
真っ当な恋愛をして普通にプロポーズした悠仁にはドン引きされた。いやまあ、まともじゃないのは恵も自覚している。
「それ宿儺に言ったの?」
「まあ、似たようなことは……」
「ええんかい! 宿儺ももうちょっとこいつの後ろ向き加減どうにかしろよ!」
野薔薇は恵と宿儺の話をする度に一回はキレる。煮え切らない恵と、それを許す宿儺の関係が理解できないと断言されたこともある。
「とにもかくにも、結婚したんだしもう馬鹿なことはすんなよ!」
「わかってる」
そもそも自信を持てなかった理由がいくらか解決したので、暫くはなんとかなると思う。要するに、宿儺に好かれる理由が分からなくてずっと悩んでいたのだ。接点は悠仁くらいしかなかった高校時代に何故恵を見出したのか。何故別れても何度も会おうとしてくれたのか。
「全ての理由などこじつけに過ぎん。それよりもお前の事は地獄に落ちても離さんから覚悟しろ」
死んだ後まで追いかけてきてくれるというのなら信じられる。それで漸く恵は逃げるのをやめたのだ。
