夏の幻

 暑い夏の頃だったと記憶している。母がまだ存命で、アリエスの離宮の生活がまだ比較的穏やかだった頃だ。后妃と皇位継承権を持つ皇子、皇女の住まう屋敷としては小さな離宮だったが、広大な大陸を支配しているブリタニア帝国の皇族であることに間違いはないので、子供が迷うのには十分な広さであった。
 ある日、母が公務で出かけてしまった時のことだ。珍しく妹も連れずに庭に出ていた。
 ブリタニアの伝統的で人の手が加わって完成される庭を自分は愛したが、母はやんちゃし放題の自然なままの庭を好んだ。隠れんぼや木登りのできる森を作ったのは母の趣味だ。お陰でいつも苦手なアスレチックをやらされる身なので、その小さな森にはいい思いを抱いているわけではなかった。
 それでもそこに赴いたのは理性的且つ合理的であろうとする自分には珍しく何か――たとえば夏の木漏れ日とか、涼やかな風とか、そういう類のものに誘われているような気がして、ついでに読んでいた経済学の本が恐ろしくつまらなかったので、気分転換でもしようと考えたのだと思う。詳しいことは思い出せない、あの幸せだった日々は輝かしいが、鮮明にいつまでも覚えていられるほどあの頃はそれを実感していなかった。だから印象的な出来事はすぐに思い出せるのに、ほんの些細な幸せを思い出すのには少し時間がかかってしまう。青い鳥は過去には留まってくれない。常に人々の手の届かない未来に向かって飛んでいる。
 その時は青い鳥を見たわけではなかったから、追いかけることもなく、のんびりと歩いていた。母のわがままで作られた小川はちょうど木陰にあって、涼しかろうとそちらに足を進めた。手にはシェークスピアの詩集だかなんだかを持っていたはずだ。それを読むつもりでいたと記憶している。
 その小川に先客がいなければ、こんなことを覚えていないまま過去を振り返っていたことだろう。
 先客は見覚えのない少女だった。長い不思議な緑髪と白い肌、細い体、一糸も纏わずにいるので不思議な傷跡が胸にあるのが見えた――こんな人物はアリエスの離宮にいるはずがないし、使用人であればこんな醜態を晒せば即刻処罰を与えられることを知っているはずだ。それなのになんと大胆な。
 これは近衛兵に言わなければならない、と幼い自分はすぐに判断した。不審人物が皇族の住まう屋敷の奥まで侵入しているのだから当然のことである。素早く拘束し、誰の差金でどんな目的でここまでやってきたのか尋問するべきであった。アリエスの離宮は他の皇族からすれば煩わしい存在であり、昔から嫌がらせが多かったから、殊更そういうことには神経質であった。
 しかし動けなかった。その少女が美しかったのもあるだろう、妙齢の女性の裸体を見たことがなかったからかもしれない、もしくは俯き体を濡らす彼女に何かを感じていたのかもしれない。今となってはどれも真実でどれも理由にはならない。とにかく動けなかったという事実は確かである。
 彼女は浅い川に座り込んで、時折指で髪を遊んだり、暑いからか水を身に掛けてはそれをやめ、特に何かをしようという様子ではなかった。何故こんな所で、と思いながら彼女を観察していた。いや、凝視して動きをひとつ残さずこの目に焼き付けたかったのかもしれない。母を慕う第二皇女と歳はあまり離れていなさそうだった。髪の長さは母と同じくらいだったが、ブリタニア皇族ではあまり見かけられないストレートの髪は少し不思議な印象を与えた。華やかな波打つ髪とは違い、ツンと澄ましていて、他人を拒んでいるようにも見えた。そしてやはり若葉色の髪が神秘的にも見えた。その時は理解できない感情が膨れ上がっていたが、今にして思えば彼女に触れたかったのだと思う。ニンフなんてものは存在するわけがないと頭から否定する自分だが、彼女はそういう類の何か人間ではない存在かもしれないと一寸考えたことは事実である。あまりにも非日常的な光景だったからだろう。
 彼女が唐突にこちらを振り向いた時、小さな悲鳴を上げてしまった。女性の裸体を盗み見るようなはしたない真似をしてしまったことがその相手に知られてしまったのだから当然だった。彼女は特に慌てる様子もなく、咎めるつもりもなさそうだった。立ち上がり、その美しく瑞々しい体をさらけ出しながらこちらにやってきて、頬に触れた時、羞恥心は限界を超えた。逃げ出そうとしたのだが、彼女に腕を掴まれてうまく行かなかった。焦っていたことは今でもよく覚えている。思い出すたびに恥ずかしい。とくに、彼女に手のひらにキスをされ、またそのキスされた手が少しずつ胸に誘導された時には何かが破裂しそうだった。ピンク色の乳首を通り、その乳房の下にある傷跡でその誘導は終えられたが、それでもまだ手は解放されなかった。
「マリアンヌの子だろう」
 落ち着いた声が聞こえてきた時、ようやく母や妹の存在を思い出した。それまでは彼女の体ばかりに気を取られて自分が何者であるのかを忘れていたのだ。
「女の裸を見るのは初めてか」
 彼女は濡れた手で抱き寄せようとした。胸との距離が近くなって恥ずかしかった。芸術鑑賞の時に数々の絵画でどれほど乳房が曝け出されていようともそれを意識したことはなかったが、生々しい肉として目の前にあるとそうも行かなかった。未だに右手は彼女に掴まれたまま、傷に触れていた。冷たい体だった。
「あいつらの子供とは思えんくらい純だな」
 くすりと彼女は笑って、理解が追いつかなくて何をすればいいのか判断のつかぬ幼い自分にキスをした。額から始まり、目尻、頬、鼻、そうして唇に。啄まれるようにキスをされ、訳の分からないまま体は動いて彼女に応えた。彼女の真似をし、キスを返した。夢中になって彼女にキスをしたと思う。初めての性交渉とも言えたかもしれない。精通はしていたはずだ。確かに自分は人間とも思えない彼女に欲情していたのだ。だが、だからといって体を繋げられるほどでもなく、キスを繰り返して満足をしたあと、少し彼女から顔を離してみた。至近距離から覗く彼女はまるで生きた人形だった。トパーズの瞳、長い睫毛、少し赤くなった頬、小さいながらもふっくらとした唇、細い顎。やはり人間とは思えなかった。だからもう一度キスをした。
「やっぱりあいつらの子だな。すけべめ」
 いつの間にか触れていただけのはずの右手が彼女の胸の傷を撫でていた。
「いけない子だ、見知らぬ女にキスされて気持ちよくなるなんて」
 彼女がもう一度右手を乳房まで誘導した時、しっかりと掴んでしまった。少し鼻にかかった声が彼女から漏れて、恥ずかしくなると同時に少し気分が良かった。
「お前がもう少し大人だったらこの続きをしてやっても良かったんだが」
 そう言って彼女は右手を解放した。離れていく彼女に少し不満を抱いた。普段ならばこんなことはしなかった。すぐに通報して捕獲してその後は近衛兵の報告を聞いて対策を取るだけだったが、彼女のことはそうしたいと思わなかった。
「この事は他言無用だぞ。誰にも言ってはいけない。母親にもだ。いいな?」
 そのまま彼女は振り返らずに行ってしまった。追いかけるつもりはなかった。彼女に言われるまでもなく、醜態を晒した己の行動を誰かに話すことはなかった。思い出すのも恥ずかしくて長らく忘れていた。

 今目の前にあの時触れた傷がある。相変わらず不思議な傷跡だ、と思いながらその傷跡をたどるように舐めると咎められたので、ツンと立っている乳首を代わりに噛んだ。やはり怒られて、頭を軽く叩かれた。
「お前はなんでそんなに乳が好きなんだ。赤ん坊でもあるまいに」
「さあな。ここに触るとさすがの魔女も大人しくなるからじゃないか」
 両手でそれぞれの乳首を捏ねた。小振りではあるが形の良い乳房がその動きに合わせて潰れるのがやはり何度見ても面白い。淡白だとか鈍いとか散々言われてきたが、やはり自分も男らしくこういう点では馬鹿で単純だった。
「お前は昔もそうして乳を掴んでくれたな。エロガキめ」
「あの時はお前から触らせたんだろうが。お前の方こそ痴女だろう。いたいけな少年に何をさせたんだか……」
「キスに夢中になったのはお前だ。からかってやるつもりが本気になられてこちらも焦ったよ」
 そこで彼女は太ももを彷徨う男の手に小さな手を重ねた。右手はまだ胸の傷を撫でていた。ああ、もう一度この女の乱れた顔を見たいと思った。あの時余裕のあまりある顔をしていた女は、もう自分の腕の中で喘いでは求め縋るようになった。時の流れとは偉大だ。
「C.C.……」
 何度となく重ねた行為であるから、彼女はこんな時に名前を呼ばれることの意味を十分に理解していた。
「体力はないくせに性欲はあるのか」
「お前の掠れた声で名前を呼ばれたいんだ」
 冗談のつもりで言ったのに、彼女は頬を赤らめた。だから耳元で自分しか知らない彼女の名前を囁くと、馬鹿と小さく言われてしまった。普段が可愛くない分、こういう時にそんな顔と声をされると興奮する。キスをして、何度も乳房を揉んで、彼女の奥底まで暴くように抱いた。彼女の呼ぶ声に自分は誘われる。どんなところであろうとも、多分見つけてしまう。そうしたら離れがたいのだ。どうしてなのかは分からないが、ただただ、彼女の胸の傷に触り、彼女の名前を呼ぶのは自分だけでいいと思った。