I don’t recollect you

「この呪いはその人物にとって精神的且つ性的な関わりの最も強い相手……まあ、ぶっちゃけると恋人に関する記憶を消すもんだ」
 呪術師にそう説明された時、クラウスとスティーブンは驚きすぎて声も出なかったが、スティーブンの頭に巻き付く奇妙な呪いを発見した義眼の少年は「なるほどォ」となんでもないような反応しかしなかった。
「まあ大体こんなのを使うのは痴情の縺れだけだな。くだらなさすぎて俺らの範囲外。まあ使用目的は馬鹿げてるが、記憶を改竄するなんてのは厄介だしレベルの低い術式じゃねえ。甘く見ると痛い目にあう」
 ライブラ所属の吸血鬼専門の呪術師ならまず興味を持たないようなジャンルの呪いなので、解き方は知らないらしい。攻略法がないわけではないが、スティーブンに掛けられた呪いをきっちり調べてから解き方を探さないと下手をすれば全ての記憶が吹っ飛んでしまうという。或いは感情の一切をなくす危険性がある。
「感情も記憶もかなり難しい分野で、扱いは繊細にしなくちゃならねえ。が、嫉妬ってやつァ人を暴走列車に変えちまうからな。なんでも犠牲にしやがる。まあ、本人らに不都合がないならそのままにしておくのが一番安全。消えたもんは戻らねえからよ」
 ところで鬼の副官様は誰のことを忘れたのかなあ〜とにやにやする呪術師に小切手を付き出して黙らせると、三人は事務所にある完全防音の個室に篭った。話し合うべき事項と確認しあうべき事項がたくさんあるのだが、スティーブンにとって最も信じがたい事実についてまず確認しないと冷静に考えることが出来ない。
 だからスティーブンは恐る恐る口を開いた。
「すまないが、僕は――あー、その――君と――」
「あ、はい、付き合ってます。ちょっと前から」
 彼はちょっと気不味そうに言ったが、それはクラウスがこの場にいるから言い辛いというような様子だった。
「改めて自己紹介しますね、レオナルド・ウォッチです。諸事情で神々の義眼を嵌められたんで、ここに来ました。血界の眷属の諱名を読めるんですけど、戦闘はからっきしなんで大体ザップさんに護られてます。よろしくお願いします」
 恋人の記憶がなくなったというのに動揺一つ見せない彼は握手を求めたので、スティーブンも握り返す。その接触には初対面の人間に対する気遣い以外何もなかった。
「でもまあ、忘れちゃったというか、記憶ないんですよね、僕のこと」
「ああ、すまないが、一切何も知らないね。神々の義眼って、そりゃマジかい」
「マジです。報告書を辿ればどんなふうに使ったか分かると思うんで、そっちを見た方が信じやすいかもっす」
 汗をダラダラ流しながらどのような言葉をどちらにかけるべきか悩んでいるクラウスと違って、彼は本当に落ち着いていた。まるで仕事の引き継ぎだ。あまりにも事務的で感情を挟まない対応にどうすればいいのか分からない。
「とりあえず、僕の義眼に関することだけはちゃんと記憶し直してくださいね。じゃないと義眼を使うタイミングミスっちゃうし」
「勿論だとも。あとで検証に付き合ってくれるかな」
「あ、バイトあるんで後日でいいすか」
「バイトか、オーケイ、連絡先は――」
 そこでスティーブンは携帯電話の連絡帳に彼の名前を見つけてしまった。ああ、そうだ、今の僕にとって彼は初対面だが、本当はそうじゃない。
「シフト再確認してメールします。すんません、バイトの時間なんで! それじゃッ」
 そして彼は出ていった。クラウスからの無言のプレッシャーにはどうすればいいのか。とにかくクラウスと向き合う。彼は決して無口ではないし、言葉で語ることが苦手ということもない。だが、信頼できる腹心と新人の青少年がよもや性的接触を含んだ親しい関係にあったことをこのような形で知ることになれば、流石に言葉に迷うだろう。
 最終的にクラウスは彼に関する記憶以外には齟齬がないことを確認するように言い、非常に悩んで言葉を捻り出した。
「スティーブン、彼は素晴らしい人物であり、いい男だ。それだけは知っていてくれ」
 恋人の記憶がすっ飛んでも慌てふためかなかったのに、バイトの出勤時間は気にする男を見てもそんなことを言うクラウスの人の良さにはほとほと呆れながらも癒やされる。
「まあ、君が認める男に間違いはないだろうぜ」
 携帯電話のメール履歴とこれまでの行動を確認しなければならないな、と頭半分で考えながら、少なからずショックを受けている自分を立ち直らせる為に、また、クラウスを安心させる為に、スティーブンは微笑んだ。

 彼がライブラに加入した日付からの書類を一枚一枚確認する。
 妹の視力と引き換えに得た神々の義眼は、ライブラにとって運命を変えるような奇跡の道具だった。不可視の人狼をも欺くレベルの幻術を一目で見抜き、他者の視界を支配し、或いは他者と視界を共有することが出来る。見つめ合えば目で見た記憶を神々の義眼を通して見ることができる。視覚に関することなら万能らしい。何より、血界の眷属の諱名を読める。これが一番重要だ。
 一度、別の神々の義眼保有者と対面したが、彼に害をなしたことでブチ切れたクラウスがその保有者をぶっ飛ばしたため、他の義眼保有者についての情報は少ない。しかし、義眼が神性存在の隠しカメラみたいなものだということは判明したようである。彼ら兄妹は見届ける者として神性存在に選ばれてしまったというわけだ。
 それがここ最近までの記録から知れたことだ。因みに給与や人間関係についてもまとめてあったのでそれも確認した。ヘルサレムズ・ロットに来るまでの経歴を見たが、何ともライブラに似つかわしくない少年である。
 彼がライブラに来てからはそれなりに時が経っている。つまり彼に関する記憶もそこそこあるはずなのだ。血界の眷属が関わる事件については彼の名前が出てくることも多い。そういう事件も彼に関する部分だけ記憶がない。それなのに記憶の混乱が起きないのは、頭を打って記憶障害が起きているからというわけではなく、呪術的なものだからなのだとか。だからといって、一度杯から溢れた水が戻らないように、折れた木の枝が元通りにならないように、スティーブンの記憶から消されたものはどうしようもない。思い出すことは不可能なのだ。とにかく、そんな呪いを掛けた相手を探し出さなければならない。記憶を取り戻せないにしろ、そんな厄介な術を使う相手をとっ捕まえなければ安心して夜も眠れない。

「ちょえっす」
 ふざけた挨拶とともに現れたのは彼だった。体の大きさにあっていない服を着て、ボサボサの頭をなんとも思わない様子の彼が、記憶をなくすまでスティーブンの恋人だったなんて信じられない。
「おはよう」
「書類、確認してもらえました?」
「幸いな事に昨日は書類整理日和だったからね」
「義眼の検証はいつでもいいですよ。そんときゃ実験台としてザップさんを用意したいんですけど」
「そりゃいいな。ちょっとしたサプライズショーになる」
 至って普通だ。今のスティーブンは彼について何も知らないから、事情を無視すればそれなりにコミュニケーションがまともにとれる上司と部下というふうにしか思われない。
「君と僕の関係は誰にも言ってないみたいだね」
「言った所で多分皆信じないでしょうから」
 それはスティーブンも同じ気持だったが、メール履歴を確認したところ、彼とそこそこ頻繁に――それこそ上司と部下にしては親しすぎる程に、連絡を取り合っていたことが判明した。自宅には何度もスティーブンから誘っているし、関係を持っていることを匂わせるようなセリフもちらほらとあった。自宅には彼の気配を感じさせるものはなかったが、スティーブンのプライベート用の携帯電話からそれらの証拠が発見された時点で、スティーブンはそれを信じるしかないのだった。
「僕にとっても現実味のない話だ」
 うっかり口を滑らせたが、彼はそうですかと小さく返しただけだった。本当に表情が読めない。糸目だからという訳ではない。目は口ほどにものを言うが、目だけで感情が現れるわけではない。顔全体の筋肉が発露した感情に対して反応し動くものだ。しかし彼の表情は至って穏やかなので、スティーブンには解釈しづらかった。元々そういう質なのだろうか。
 書庫で二人で話そうと促したら彼は直ぐに理解したらしく、極自然な動きでスティーブンの無言の指示に従った。同じ職場で働く相手なんて今までいなかったが、あの浮かれたメールから察するに幾度か執務室でしでかしているのかもしれない。なんてことだ。本当に信じがたいことばかりで、スティーブンの精神は安定を見せない。
 スティーブンを更なる混乱に陥れるのは彼だった。
「そうだ、僕のこと、振ってください」
 彼が本を探す素振りをしながら言うので、スティーブンは棚の上の方にある本を取ってくれと言われたのかと錯覚した。彼はこちらを見ていない。
「何故?」
「だって、知らない相手といつの間にか付き合ってたって言われるの怖くないっすか?」
「まあ……そうだな」
 身に覚えのないメールの数々、しかも相手から送られてくるメールと照らしあわせてそれがドッキリ企画でも何でもない、恋人としてのやり取りなのだと分かった時の衝撃は、筆舌しがたいものであった。
「でも僕は覚えてるし、あなたも知っちゃったから、区切りをつけたほうがいいでしょ」
 本を手に取り、暫く表紙を開くかどうか悩んで、しかしながら彼は本を棚に戻してしまった。ゆっくりと彼の手に押されて元の場所に収められた本の隣を、彼はまた指でなぞる。
「ねえ、君の記憶にあるスティーブンなら、なんて言って君と別れると思う?」
 彼の好きなスティーブン・A・スターフェイズと、自分が自分として認めるスティーブン・A・スターフェイズは果たして同一人物なのだろうか。あんなメールを打つ男が、本当にスティーブン・A・スターフェイズだというのか。
「想像したことないからなあ……。でも、まあ、後腐れ無いようにしてくれるんじゃないですかね」
 彼は平然と答えた。講義中にいきなり教授に当てられて返答に困っている学生のような気軽さがあって、恋人を失ったことの悲痛さはどこにもなかった。
 スティーブンはどう言えばいいのか分からなくなって、書庫を出て行く彼のことを引き止めることができなかった。

 それからというもの、スティーブンは自分の記憶の矛盾を探った。彼がいなければ解決できなかった血界の眷属に関する事件についても「何故かうまい具合に解決した」というふうに記憶を書き換えられていて、その「誤認」が今後の仕事に影響しかねないレベルだと判明した段階で、スティーブンは自分にけったいな呪いをかけてくれた相手を探すことを個人的な仕事の中で最も優先すべき事項とした。
 この呪いに関しては、事情が事情ゆえ、当事者である彼とスティーブン、そして二人の上司であるクラウスにしか情報を明かせなかった。同僚達の混乱を防ぐためであったが、同時にスティーブンにとっては広まってほしくない噂であったし、彼もザップらにあれこれ言われるのは御免だということだったので、そのようになった。
 それなのに、どういうわけだか、最近彼に対して冷たい態度を取っているというふうによく言われるようになったし、彼は彼でスティーブンを怒らせたのかと聞かれることが度々あるという。
「そんなふうに見えるのかね」
 ギルベルトの淹れたコーヒーを啜りながら、ひとりごちる。
 机の上には書類が散乱していて、正直気が滅入る。一ヶ月に数日くらいは何もない日があるものの、基本的に毎日忙しい職である。牙狩りの頃は血界の眷属にだけ反応していたが、ここヘルサレムズ・ロットではそうもいかない。犯罪組織だけではなくトチ狂った主義主張の団体が活発に活動しており、異界人達による暴挙も毎日起こるこの街で暇な日など早々無い。それに加え、個人的な仕事が増えてしまっている現状は非常に不愉快だった。加えて、脳から情報の消えてしまった部下に対する態度が冷たくなったと非難めいたまなざしで見られると、なんだか気分が悪くなる。
 今のスティーブンにとって、彼はただの新人でしかないのだ。神々の義眼を有する非戦闘員の部下以上に何も分からないし、かつて自分と艶めいた関係であったことすら想像できないくらいまっとうな人物だというふうに認識している。到底、スティーブンと付き合おうなんて考えるような人間ではないのだ。
 しかし、二人は確かに二人だけの時間を持っていた。それが分からない。理解が追いつかない。彼のことも、彼と付き合っていたという自分のことも分からないし、そういう関係に至った経緯も推測できやしない。そのことが最近のもやもやとした小さな苛立ちの原因だった。
 いや、苛立ちだけではない、とスティーブンには分かっていた。でもそれを明らかにしてしまうのは阻止しなければならない。認める訳にはいかない。
「スティーブン? 気分が悪いのか」
 ふとクラウスに声を掛けられて、漸く自分が眉間に皺を寄せながら何もない所を睨んでいたことに気づいた。
「いや、平気さ。何、いつになったらこの街は穏やかになってくれるのかと思っていだけだよ」
「気分を入れ替えてはどうかね。君は仕事に対して誠実過ぎる」
「そうすることとしよう。少し外の空気を吸ってくる」
 外の空気と言っても、こんなに霧が濃いんじゃあやってられないよな、とここに来てから何度も思った。晴れた日の青い空と乾いた空気、眩しいくらいの日光の暖かさとは無縁の生活を送らざるをえないこの街は、とても物騒でどんなに戦場慣れした軍人でも一日で死んでしまうような危険地域である。どこかでマシンガンが火を噴くのは当たり前、ビルが倒壊するような爆発が起きても住民は平気な顔でその跡地を踏みつけて生活をする。サラダボウルと言われた以上の規模で混沌とし、倫理も常識も科学も宗教も吹っ飛んでしまう、それがヘルサレムズ・ロットだ。
 しかしながら、散歩をすることもできないほど危険なわけでもない。危機回避能力を備えているのならばそれなりに住める街でもある。寧ろ、外界ではやっていけないようなヤバい連中にとっては住みよい街である。斯く言うスティーブンにとっても、この街は何が起きてもおかしくないという前提で生きている連中しかいないのは好都合だった。HLPDはスティーブンの個人的な挙動に構っていられないほど忙しいからスティーブンと関わりのあった人間がいきなり消えてもニュースにはならないし、勿論スティーブンに容疑が掛かることはない。だってなんでも起きる街だから。ここに住まうことを決めた人間の殆どが何が起きても自己責任だと分かってるし、理解できる範囲を超えたことであってもそんなもんだと受け入れるしかないのだと覚悟を決めているからこそ生きていける。
 彼もそんな人間のうちの一人なんだとふと思った。小柄で身体能力に特筆すべき点のない彼は、義眼の能力のおかげで生き延びているようである。また、ザップがしょっちゅう面倒を見ることで戦闘力のなさを補っている。こんな街で生きていくには弱い人間だ。けれども、彼はここで生きている。

 街を歩いていると彼を偶々見かけた。異界人と並んでベンチに座り、ハンバーガーを馬鹿みたいに食べている。平和なワンシーンだ。
 彼とはデートをしたんだろうかと考える。メールの内容はあんまり読んでいない。何せ自分の記憶にないのに自分の端末の送信メールボックスに彼宛のメールがたくさんあるというのが気味悪くて二三通程内容を検めると一括削除してしまったからだ。とにかく付き合っていたというのが彼の妄言ではないということを確かめるための作業だったから、自分が彼と恋人だったのだと実感することはなかった。
 今も、彼とそんな関係だったなんて、想像できない。遠くから見える彼と自分の今の距離は正しいと思う。
 書庫で彼と話をしてから、彼と二人きりになることはなかったし、それ以上に彼は大勢のいる空間であったとしてもスティーブンと接触することがなかった。アルバイトが忙しいということだったが、本当かどうか疑わしいとスティーブンは思っている。だからといってそれが真実であるかどうかを確かめるつもりはない。お互いに気不味いと分かっているからこそ、何も言えなかった。周囲には彼がスティーブンの機嫌を損ねてしまったのだと誤解されている。K.Kがやたらと何があったかしんないけど許してやんなさいよ、まだ二十歳そこそこの子供に八つ当たりするなんてと言うのだが、スティーブンは彼に対して怒っていない。強いて言うならば、少々気に食わない程度だ。
 バーガーを食べ終わった彼らがベンチを離れたのを見てから、スティーブンは事務所へ足を運び始めた。何と言っていいのか分からないものが胸の奥で心臓を弄んでいる。
 何も忘れることがなければこんな気持にならなかっただろうに。

 スティーブンに呪いを掛けた愚か者を捕まえたのは、それから二ヶ月も後のことだった。私設部隊が懸命に探索をしてくれたお陰だが、中々に隠れるのが巧い術者で、尻尾どころか影さえ掴むのが困難だったという。しかしこうして成果を出してくれる彼らには感謝しかない。優秀な部下を持つことができたと実感すると本当に嬉しいものだ。
 術者は老齢に見える異界人だった。口を割らないので何度も何度も”お願い”して、”話し合い”に持ち込み、漸く、気紛れに通行人に術を掛けて試しているということと、スティーブンに掛けられた術について聞き出した。異界人によるとやはり記憶は戻らないということだったのでスティーブンは私設部隊に処理を任せると、自宅に戻り、シャワーを浴びて、ベッドに横たわった。
 戻らない。消えたものはもう二度と戻らないのだ。つまり、スティーブンは忘れてしまった彼との時間を思い出すことは決してない。その事がなんだか腹立たしかった。腹立たしいついでに、スティーブンは携帯電話を取り出して、記憶を失ってから一度も送ることのなかった相手にメールを打った。こんなのを彼に送った所でどうなるというわけではない。ただ、呪術師を始末するついでに色々ともやもやとした気持ちをはっきりさせてしまいたかった。
 暫くすると彼は来た。慣れた様子でスターフェイズ邸にやってきた彼は、どういうつもりなんだという疑念を隠していなかった。
「すまないね、いきなり呼び出して」
「いや、まあバイトは終わってたんで別に問題無いですけど……」
 コーヒーを差し出すと彼は受け取ってソファーに座った。スティーブンは彼に接触するかしないかのぎりぎりの距離で彼の隣りに座った。
「僕に呪いを掛けていたやつが見つかった。やはり記憶は戻らないらしい」
「え」
「何に驚いてるんだい?」
「あなたがそれを僕にいう必要ってあるんでしょうか」
 何言ってんだこいつという顔をされるのは非常に不愉快だったがそれもそうかと頭の冷静な部分が納得してしまった。ライブラの呪術師が既に記憶は戻らないだろうと推測していたのだから、彼にこんなことを報告した所でどうにかなるわけではない。だが、そんなふうに驚かれるなんて。
「元恋人にそれを伝えるのは不自然なことかな」
 ちょっと落ち込んだ雰囲気を装ってみると、彼は慌てた。本当に根本的にイイ奴なのだろう。何がどうしてスティーブンなんかと付き合っていたのか分からない。
「いや、そうじゃなくて。あなたの性格なら僕のことなんてほっとくんじゃないかと、そう思って」
 恋人と付き合うからといって人格が大きく変わるわけではないが、それなりに優しい対応をするはずだ。それなのに、彼はスティーブンを恋人に冷たい人間だと認識しているらしい。普段から厳しくしすぎたせいなのだとしたら、考えものだ。
「君の中の僕のイメージってどうなってるんだ? 恋人だったんだろう?」
「仕事に一途で必死で大体疲れてる人だなっていうのが一貫してるイメージですよ。あとかなりビジネスライクだなって」
「だからって恋人にまでビジネス的な対応をすると予測されるのは不本意だな」
 恋人としてセックスをしたからこの男のことを忘れているはずで、恋人だったというのならば甘い時間もあっただろうに、なんだろう、この見解の差は。
「優しくて親切なのは分かってますよ。でも今のあなたからすれば僕って只の部下じゃないですか」
「そうだな、僕は何も覚えてない。でも君にとっては恋人だったんだろう?」
「そうですね、まあ、上司と部下って関係じゃなかったっすね」
 彼はカップをテーブルに置くとスティーブンに向き合った。こちらを見る彼のネオンブルーの瞳が美しい。これが神々の義眼というわけか。
「ね、なんでそんなに僕との関係にこだわってるんです?」
 心底不思議だという顔をされるのは不本意だ。先程から感じていたもやもやとした熱いものが加熱していくのが分かる。普段ならコントロールして表に見せないものがじわじわと溢れ出てきてしまうのが分かった。恐らく表情に出ているが、それと同じくらいに足元から冷えていって何もかもを投げ出したくなるような虚しさがあった。
「君にとって僕は何だったんだい」
「何って、恋人でした。でも今は違うじゃないですか」
 そうだ。その通りだ。今はそういう関係ではないのに。面倒なことを言ってしまうなんて、馬鹿じゃないのか。だが、スティーブンはふとした時にこの忘れてしまった男のことを考えている。未練がましい。向こうは吹っ切っているのに。スティーブンはポジティブな人間ではないから、落ち込むと暫く引き摺るタイプではある、でも、だからってこんなふうに無意識に誰かのことを考えているなんてことは殆どない。ないからこそ、苛々するし、同時に崖っぷちに背を向けて立っているような感覚になる。いつ落ちてもおかしくない非常に危険な状況を強いられているような不安が、スティーブンをせっついていて、それは何をすべきかスティーブンに指示を与えないくせに早くしろとがなり立てるのだ。何をすりゃいいってんだ。
「まあ、よかったです、これで心配事減りましたね」
「そうだな、僕の頭を弄くったバカはいなくなった」
 横に座る彼に凭れ掛かる。バイト終わりだからか、汗の臭いが強い。
 なんでこの男だったんだろう。腹芸に長けているわけでもなく、ザップと同じレベルで会話ができる彼のことが、どうしてだか分からない。理解できない。糸目ではあるが表情筋が固まっているわけでもないくせに、スティーブンには彼の本心が全く読めない。彼が何を考えているのか予想もつかない。スティーブンに訳のわからないものを与えておきながら、彼はけろっとした顔で生活している。
「どうしたんですか、気分でも悪いんですか」
「そうだな、色々と……気分は悪いし、仕事は立て込んでいるし、周りが君と僕に起きた事を知らないせいかあれこれ言ってくるし……疲れたな」
 膝に置かれていた彼の手を持ち上げてみる。身長に相応な大きさの手は子供のように熱くなく、だからといってスティーブンのように乾燥して体温が低いということもない。
「僕、帰りましょうか」
「何故?」
「何故って、あんた、そりゃ……」
 彼は困っているようだった。何故困ることがある。どうせこんなこともしていたんだろう、とスティーブンは彼の手に唇を押し当てた。
「もう寝た方がいいですよ」
「一人で寝るのも詰まらないだろう」
「義眼でいい夢見せてあげましょうか」
 あははと笑って彼はスティーブンを見つめた。
「僕、帰ります。生存率低くないし、明日用事もあるから」
 彼の顔は仕事終わりのちょっと疲れた時に見せるものだった。全くもって平素の顔だった。
「つれないな」
 スティーブンはゆっくりと彼から離れた。彼には本当にその気がないのだから、引き止めることはできない。無理に引き止めても意味はない。緊急の事でもないのなら、多くの場合において合意は大事なのだ。多少の強引さは時として必要だが、恒常的になるのはよろしくない。そして人間の関係は何事も駆け引きだ。一方的では成り立たない。
「今度呼び出すならもっと楽しい用件でお願いしますよ」
 でも今日は寝た方がいい、と彼はスティーブンの家を出ていった。

 翌日の気分は微妙だった。彼が本当にかつての恋人だったのか疑わしくなってくるほどだったので、もうやめにしようと顔を洗って鏡の中の自分を見つめた。
 いつもの自分だ。何年も前から少し草臥れ始めた自分の顔だった。悪い冗談に振り回されただけだったのだ、と思うことにした。彼について何かをしたり、リアクションを求めたりするのはやめだ。ただの上司と部下に戻るべきだろう。期待をしていた自分が酷く滑稽だった。
 どちらにせよ、新たに入手した情報によれば、向こう三ヶ月は忙しくなりそうだったので丁度いい。どこかの政治団体が違法行為を繰り返す異界人から秘密裏に献金を受けていて、それによって異界絡みのハチャメチャな法案が通るかもしれないとの事だった。荒事メインのライブラにはちょっと繊細すぎる仕事で、言うなればザップに女王陛下の前できちんとした挨拶をしろというようなものだったが、やらなければならないのだからやるしかないのだ。事実確認をし、それが本当だとしたら、迅速に証拠を集めて適切な機関にその情報を売らなければならない。
 仕事をしていれば、気も紛れるだろう。彼はバイトのシフトが減ったのか、最近よく事務所にいる。しかし、こちらから話しかけなければあちらも無理に接触することはない。同じ空間にいたとしても、スティーブンと彼には距離がある。その距離が一時とは言え縮まっていたのが信じられなかった。最早信じることもない。何せ今それを証明できるのは彼の記憶だけなのだ。そんなの証拠にはならない。最初からなかったのだと思おう。

 気持ちを切り替えると仕事の効率は上がった。クラウスとスティーブンは持てる限りの人脈を利用してわけのわからない法案が通らないようにあの手この手で阻止することに成功した。クラウスがどのようにして政界に働きかけたのかは知らないが、スティーブンはクラウスが接触しないような界隈の連中に金を渡し、餌を与え、目立たぬように事を進めた。その為、通常業務と並行してスケジュールを組まねばならず、また、一日の時間が限られているという事実は変わらないので、スティーブンの睡眠時間はゴリゴリ削られる羽目になった。その法案が通った場合の人界側の損失を考えれば、クラウスが接待に費やした金額やスティーブンの寝不足など大したことではないのだが、クラウスからの提案も有り、スティーブンはこの大仕事が終わったあと、一日休暇をもらった。

 休暇をもらった所で、寝る以外のことができない。何かをしようにも時間が足りないし、誰かに会う気にもならなかった。一日とはとても中途半端だったが、それ以上休んでいられないのがこの街に生きるものの定めだ。家でおとなしくしている他ないのだろう。どうせ明日からまた昨日と同じような日が続くと分かっているのだから。
 しかし、だだっ広い家に一人でいるのも何だかつまらなかった。映画を見る気にもならなかったが、寝るだけというのは勿体無い。仕事はするなと言われているし、セキュリティ万全とはいえ、家にライブラ関係の書類を持ち帰ることはできなかったから、本当にやることがない。
 何もすべきことがないというのは何だか地面が消えてしまったような浮遊感があって恐ろしかった。だからといって、何をすべきだというのだろう。クラウスに心配をかけるようなことはしたくないし、明日からまた忙しくなると分かっているのだから今日は疲れるようなことはしたくない。
 コーヒーを入れたカップをテーブルに置き、スティーブンは窓の外をみた。いつ見ても霧が濃くて何も見えやしない。太陽の光が注がないからこんなに陰鬱になるんだろうと責任転嫁をした。なら陰鬱な気分が晴れるようなこととはなんだろう。日光浴のできないこの街で、太陽は何だというのだろう。
 ソファーにだらしなく身を任せ、スティーブンはライブラメンバーの番号が入った端末を持ち上げた。その中の、三ヶ月前にメールを送って以来、事務的な電話しか掛けていない相手のページを見る。一体何の呪いをかけられて、その結果誰に影響が及んでしまったのかを忘れてしまいそうなほど、彼とスティーブンの関係は穏やかだった。何も起きやしない。
 確かに、クラウスの言ったように彼はいい男だ。癖の強い奴ばかりが集まるライブラで、誰とでも仲良くやっているし、ライブラ以外の連中とも交流を広く持ち、善良な一市民として生きている。多少小狡いし、強かで、頑固者で、優しい男だ。
 あの日からこっち、周囲からはスティーブンの態度が軟化したと見えるようになったらしく、変にあれこれ言われることは減った。だが、同時にK・Kから「嫌味にキレがないわよ」と言われてしまった。スティーブンはそれに対する明確な反応は一切しなかった。だが、長い付き合いのあるK・Kにはスティーブンが隠している何かが分かってしまうのだろう。だからといって、彼女に愚痴るわけにもいかなかった。
 カップの中が空っぽになってしまった頃、インターホンが鳴った。来客の予定はなかったはずだが、とスティーブンが確認すれば、そこには彼がいた。
「アポ無しで来るとは……」
「クラウスさんに確認したんで、まあ家にいるだろうと思って」
 玄関先で立ち話というわけにもいかないので、部屋に通す。飲み物を出してやる気にはならなかった。スティーブンは一人がけのソファーに座って、彼には向かいのソファーを促す。
「何か用?」
 最後にこの家であった時に言われたような楽しい用件など何もない。午前十一時現在、今日一日の予定は寝る以外にない。
「んー、まあ、用ってほどでもないというか。様子見に来たんですよ」
「は?」
「ストレス溜まってるんじゃないかなって。だから来たんです」
 彼はスティーブンの前に跪いた。覗きこむような距離が、不愉快ではない。なにせ、彼の様子をいちいち見ていても不審な点が一つもないので、警戒する必要が無い。違う、そうではない、それだけではない。
「部下の君が上司の僕の様子を見に来たってわけかい?」
「だめですか? 尊敬する不摂生な上司を労りたいっていう素直な部下の心ですよ」
 彼は背負っていた荷物を置いて、スティーブンの手を握った。彼の左手がスティーブンの右手を、彼の右手がスティーブンの左手を、やんわりと包んだ。ゆらゆらと子守唄のような緩いリズムで揺らしている。今日は汗の臭いがきつくない。どちらかというとさっぱりしてきたというような様子だった。
「親切な部下を持ててぼかぁ幸せな上司だな」
「僕もあんたが親切を受け取ってくれる上司で良かったなと思いますよ」
 スティーブンは、両手を引っ張って彼を立たせた。そのまま引き寄せて、抱きしめる。彼は一切抵抗しないで、スティーブンの頭を抱きしめた。慣れた様子でスティーブンの頭を撫でる彼に、忘れてしまった彼との関係を教えられたような気がした。
「もっと運動したほうがいいんじゃないか」
 服のサイズが大きいので分かりづらいが、彼の体には贅肉が多い。不摂生についてスティーブンに意見できる立場ではない。
「運動はめっちゃしてるようなもんですよ、この街に引っ越してからちょっと筋肉ついたんですからね」
「脚を鍛えろ。逃げ足が早いに越したことはない」
「脚って鍛えにくいじゃないですか……」
「トレーニングなら教えるよ。君に死なれちゃ困る」
 あの日から彼が玄関先に現れるまで、ずっと消えていた何かがじわじわと溢れてきた。何と形容すればいいのか分からないが、抱きしめながら体を揺らしていると、目が熱くなってきた。良くない、と思ったが、彼は何も言わないでそのまま抱きしめるので、スティーブンは彼の腹に顔を埋めて、暫く動けなかった。

 腹が減ったんですけど、何かあります、と訊かれて食事を用意した。簡単なものしか用意できなかったが、それでも彼は喜んで食べた。自炊は殆どできない生活なので、たまに誰かの手料理を食べるとすごく幸せな気分になるらしい。ヴェデッドの料理を食わせてやろうかと思った。それにはディナーに招待する必要がある。ただの上司と部下でも、それくらいなら世間一般的に見ても変ではないから、構わないだろう。
 彼は向かい合わせに座らないで、スティーブンの隣りに座って食事をとった。すぐに手を握れるような距離だったが、キスをするには引き寄せなければならないような中途半端な距離だった。そんなことを考えるくらいには頭が湧いているんだなとスティーブンは冷静になれるように努力をした。疲れているからって、いくらなんでも。
 彼の口に、スクランブルエッグが運ばれるのを、スープが入っていくのを、パンが齧られるのを、見ていると、彼は怖いから見ないで下さいと言った。大きく口を開けて品のない食べ方をしているという自覚があるがゆえの発言なのだろうかと思いつつ、スティーブンは適当に返事をした。子供っぽい見た目の通り、子供みたいな食べ方だった。
 食事の最中には当り障りのない話題が二人の間を行ったり来たりした。彼がザップの愛人騒動や喧嘩に巻き込まれた話は大体あいつが屑だという結論にしかならなかったし、それを改善させる方法を思いつくことはできなかった。どんな方法も、ザップの生活習慣を目の当たりにしていると現実味のない話になってしまうからだ。ツェッドの大道芸に磨きがかかってきたという話は初耳だった。道で見かけた異界人のあれこれ、義眼で見てしまったやばそうなもの、巷で有名な売れ筋商品、ライブラ内のちょっとした事件やうわさ話など、他愛のない話だった。
 スティーブンが個人的に関わり合う人間の多くはハイソサエティであり、政治、経済、経営のあれこれは勿論、年齢的な事もあって家庭のややこしい話や恋愛の駆け引きの話も多い。大体が疲れる話題だが、刺激的でもある。退屈する反面、興味深い。その話題に見え隠れする話者の主義主張、性格、嗜好を見つけ出し、話者の心地よい返答のパターンを見出すのはちょっとした推理ゲームだ。うまく行けばもう少し情報を聞き出せるし、良き関係を築くことができる。
 彼はそういう類ではなく、楽しい話をしたり愚痴をぶちまけたり、およそ建設的ではない話をする。下らない話ばかりだったが、それこそ本当に平凡で、頭を使わなければ会話が成り立たないなんてことはないので、気が抜ける。
 食事を終えると、彼は四人がけのソファーに座って、胡座をかいた。靴は脱いである。
「今日はどうするつもりだったんです?」
 スティーブンが彼のぴったり隣に座っても、彼は何もしなかった。拒むわけでもなければ、寄り添ってくれることもなかった。
「それに悩んでいたところなんだ」
「疲れるようなことはしたくないですよねえ」
 彼の肩を抱き寄せて、鳥の巣のような頭を撫でる。先ほど抱きしめた時も感じたが、なんて小さな体だ。遺伝的な問題でこんなに小柄なのだとしたら今後の成長の見込みはないだろう。妹も先天的に足が悪いというから、そういうことなのかもしれない。
「酒でも飲むか……」
「おお〜何飲みます?」
 ワインならたくさんある。高いものから安いものまであって、今日は安酒でいいやと適当に用意する。こう言うと失礼だが、高い酒を飲ませる甲斐はなさそうだったし、自分がそんな気分でもなかった。
 案の定、彼は安い酒でも楽しそうだった。テレビを点けて、番組を漁る。番組表の情報で吟味したり、世間の若者向けのバラエティの評価も語り合った。ニュース番組では、メディアについて議論できたのは意外だった。
「これでも記者希望でしたから、メディア系は多少話せますよ」
「ふうん」
 今では、吸血鬼退治の切り札か、或いはピザ配達のバイトだけの人生を送っていることに、彼自身はどう考えているのだろう。数秒後には運命が変わっているようなこの街で、彼は常に同じような態度で居続ける。忌々しいほどに、彼は普通に生きている。いずれ目的を果たせば、彼はここで暮らしたように外でも暮らしていけるのだろう。
 スティーブンは違う。決してここと同じ生き方を外でもできるとは思えない。根本的な所で、スティーブンと彼は違うのだ。
 スティーブンの頭の中は別のことを考えていても、彼と議論することは出来た。そのまま、だらだらと口に任せて話し続けていると、結構な時間になっていた。スティーブンは平気だったが、彼はそうでもない様子だった。
「飲み過ぎたんじゃあないか? 足がふらついてる、今日は泊まっていけよ」
「お言葉に甘えますわ……」
 そのまま夕食の支度をする。今日は家政婦を呼んでいないのでまたスティーブンの手作りだ。
 料理は好きだ。趣味と言っていい。自分で作る方が安全だし信用できるというのもあるし、何かを作るというのは案外ストレス発散にいい。こだわると奥が深いのは何でもそうだったが、完璧主義の嫌いがあり、尚且つ見栄っ張りなので、スティーブンはそれに応えてくれる料理は好きだった。今夜は無条件に喜んでくれる相手もいるから、気分は良かった。
 プチトマトと青唐辛子のカゼレッチェと、 茄子のポルペッティーネを食卓に並べると彼は嬉しそうに食べた。料理のタイトルを告げれば、それは呪文ですかと訊かれた。イタリア語で伝えたのが悪かったらしい。だが、イタリア語が分からなくても美味い美味いと頬張る彼が幸せそうだったのでどうでも良くなった。普段はこんなに単純な感想を述べるような食事ではないので、却って新鮮だった。

 それでも、彼がこの家に来た理由がよく分からなかった。元恋人だからではなさそうで、それにしてはとても親密だった。彼は平然とした顔でスティーブンを翻弄する。憎たらしいとは言わないが、困惑という言葉では足りない。苛々するのと同時に、彼と抱き合った時の言い表し難い感情を無視することもできず、スティーブンは中途半端な高さの海で溺れているように思われた。立てないほど深いわけではないくせに、波に揺られてまともに立つことは許されない。腹が立つ。なのに追い出す気にはならないし、首を絞めて黙らせたいとも思わない。生命の危機を感じるほどのことでもないからだろう。彼に危害を加えられてもスティーブンは返り討ちにできる自信があった。余裕ならあるはずだ。しかし、やはり、彼のことが分からなくてどうすればいいのか分からなかった。分からないから、引き止めて、洗いざらい話させようと思った。

 食事の後にまた飲み、シャワーを浴びて、ベッドに誘導した。彼は特に思うところもないらしい。性的関係があり、尚且つ精神的繋がりのある相手だったからこそ、スティーブンは呪いによって彼を忘れた。即ち、スティーブンの記憶にないが、彼の記憶にはスティーブンとベッドで楽しくしていた事が片隅にあるのだろう。変な気分だ。そんな記憶を殴りつけたいと思った。
 ベッドに二人して横たわり、また話をする。案外話題が尽きることはなくて、それは互いに気遣っているからだったが、互いの価値観の違いに興味があるのも確かだった。いや、彼は既にスティーブンの事など知っているのだが。
「なあ、訊きたいことがあるんだが」
 スティーブンにしてはかなり直截な切り出し方だったので、彼は何となく察したらしい、こちらに体を向けて、何ですかと答えた。
「君はこのベッドで何度寝たんだ?」
「ええっと……何回だろ……? 始めが一年前で……それからそこそこの頻度で来てるんで、うん?」
「数えるのが面倒になるほど?」
「数えるような事じゃないし」
 だって、終わりを想像したことがなかったもんだから、と彼は笑った。
 スティーブンは遠くもないが近くもない距離に寝転がる彼の唇に触れた。
「なぜこのベッドで寝る? このクイーンサイズが気に入ったからかい?」
「アンタがここで寝るからですよ」
 彼の舌がスティーブンの指に触れた。そのまま舐めるのかと思ったが、唇でスティーブンの指と遊ぶだけだった。
「いい加減寝ましょ、あ、睡眠ですよ、睡眠取りましょ、明日からまた頑張らなきゃなんないんだし」
「ロマンスはお嫌いかな」
「今の僕とあんたでやることじゃないです」
「じゃあ、何をすべきなんだい?」
「二人で並んでぐうすか寝ることだけですよ」
 おやすみ、と彼はスティーブンの唇にキスをした。
 その夜、スティーブンは彼を抱きしめて眠ったが、これが存外心地よくて、夢の一つも見なかった。

 それ以来、スティーブンの家に彼はしばしばやってきた。事前連絡がある時もあったし、ない時もあったが、スティーブンは概ね抵抗することなく彼を迎え入れた。だからといって、スティーブンも彼もキス以上のことはしようという素振りすら見せなかった。しかし同じベッドに横たわり、抱きしめて眠ることに異論はなかった。
 職場では相変わらずだった。スティーブンは彼と仕事の連絡事項以外話すことはなかったし、プライベートで会っていることを匂わすような素振りは一切しなかった。しかも、彼は徹底していて、一泊した後スターフェイズ邸を出ると一旦家に帰ってシャワーを浴びてにおいをごちゃまぜにする。よく絡んでくるザップの嗅覚に疑問を持たせないためだろうが、そこまでしてスティーブンの家に泊まる必要はあるのだろうか、と引き止めている張本人は思う。
 少しずつ絆されていくのを感じる。愚痴を言って、それを逐一聞きながら、体の一部を触れ合わせる。時に、それが近くなりすぎることがあって、ソファーの上で隙間の一つも許さないくらい抱きしめながらキスをする。それは子守唄の代わりのようなものであって、セックスへの誘いではなかった。
 絆されて、違和感が薄れていくのは、恐らく彼が人畜無害であるからだ。しかし、だからといって理解できる相手ではなかった。しかし、理解して、全てを把握すれば面白くなくなるだろうとも分かっていた。何を考えているのか、少しも分からなかったが、彼はスティーブンに危害を加えるつもりは一切ないと常に態度で示していた。

 その日は堕落王の乱痴気によって街中が食人虫(外見は虫だが、猫程度の大きさがある)で溢れかえっていたのをHLPDと協力して退治し、一日どころか30時間も潰れたので、疲労困憊で誰もがうんざりしていた。食われないように必死に逃げ回りながら、飛び回る虫どもを倒すのに最適な斗流兄弟とK.Kを作戦の要とし、虫どもを一点に集めるためにクラウスとスティーブンが血法で壁を作り、取り逃がした虫の発見をチェインと彼に任せ、ライブラ実働部隊をそこら中に配備して殺した虫の処分をさせるという面倒なことを指揮したスティーブンは30時間寝る権利を与えられるべきだと憤慨していた。
 憤慨ついでに、スティーブンは誰にもバレないようこっそりと彼を家に連れ帰った。彼はちょっと驚いていたようだったがおとなしくスティーブンの車に乗って、そのまま風呂場に連れ込むスティーブンにおいおいと笑うだけだった。
「なんだって君はそう僕に振り回されてるんだ?」
「甘やかしたいなあって思うからですよ」
 服を脱がし、早急にキスをすると彼は腕を回して抱きついてきた。疲れすぎてもう何も考えたくなかったし、何もしたくなかったが、キスをするのはやめなかった。
「君が何を考えてるのか僕にはさっぱりだ」
「僕だってさっぱり分かんねえです。またアンタが僕を選んだのが不思議で不思議で」
 また、と言われると本当に不思議な気分になる。今のスティーブンにしてみれば、初めて彼を選んだことになるのに、彼にとっては再び選ばれたということになるのだから、据わりが悪い。
「前にも聞いたんです、何で僕なんですかって。何考えてるのか全然見えないから、気になって仕方がないって」
 なるほど、スティーブン・A・スターフェイズはいつなんどきもスティーブン・A・スターフェイズなのだ。
「今の僕も同じ答えしか返せないな。君が分からない」
 クラウスに似ていると感じることはあるが、クラウスはあの強さがあってこその頑固なまでの優しさを貫けるのであって、彼とは違う。只管に弱い彼はザップと同じレベルの会話をするが、だからといってザップと同じ天才ではなくて凡人だ。チェインと同じく他者の目を欺き保身出来る能力を持つくせに、チェインのようにうまく躱すことはない。そしてスティーブンを遠くもなければ近くもない場所から見ている。その表情を伺うと、糸目と童顔の所為で何を考えているのか分からない。微笑んでいるのか、バカにされているのか。こちらをどう扱いたいのか分からない。
「単純ですよ、ぼかあ。アンタが名前を呼ばないから、意地張ってこっちも呼んでやらねえって思うくらいには子供だし」
「……気付いていたのか」
「愛称すら呼んでくれないでしょ」
 いけずなひとだって前々から分かってたんでね、いいですけどね、と彼は拗ねたふりをする。どうしても名前を呼びたくなかったスティーブンを責めずに、仕返しはする。可愛らしいものだ。
「レオナルド・ウォッチ」
「少年って呼んでたんですよ、スティーブンさんだけが」
 レオナルドに関する記憶を失ってから半年以上が過ぎて、漸く初めて名前を呼んでもらったことに、どうしてだか胸が苦しくて、スティーブンはレオ、ともう一度名前を呼んだ。呼んだというよりも、呟いたというのが正しい。レオナルドは、どうしたんすか、スティーブンさんとやわらかな声で言うので、スティーブンは抱きしめながら、どうしようもないんだなあと諦めた。