Get Back

 午後のニュースが五年前に買ったラジオから流れている。明日の天気予報、有名な女優のスキャンダル、軍のあれこれ、州のどこかで起きた発砲事件、国際的イベントについて、来週公開の映画のコマーシャル。一人ぼっちのキッチンに流れる情報のさざなみを止める為に彼女は腰を上げた。
 今日の夕飯はどうしたらいいんだろう、また適当にありあわせのものを買おうかしら、だって食べてくれる人がいないんじゃあ作り甲斐がないわ、とそこまで考えてまた涙が溢れてくる。娘が警察に連れて行かれてから毎日泣いてしまう自分の弱さに苛立ちを覚える。
 もっとしゃっきりしないとジョリーンにいつまでも泣き虫さんって笑われちゃうわ。でも、あの人に頼ってしまった私のことをジョリーンは怒っているかもしれない、ジョリーンはあの人のことを嫌っている。だから電話も鳴らないのかもしれない。けれど、あんな状況で、娘が危機に瀕しているって時に、私一人じゃ何にも出来やしない。あの人はジョースター不動産会社のCEOの孫で、何やらSPW財団とも繋がりがあって詳しくはないけれどそこそこ権力を持ってるらしいことは私も薄々気付いていたから、それを頼るしかなかった……。
 彼女は鳴らぬ電話を日に何度も見つめては落ち込んでいる。ベッドで寝ていてもいつ呼出音が鳴るだろうかとそわそわしてろくに眠れやしない。
 娘が十五年も刑務所にいなければならないような事をしたとは思っていない。娘は確かに父親との関係が良くなかったせいでちょっとヤンチャを繰り返していたけれども、心根は真っすぐで優しい子だと彼女はよく知っている。離婚した時もママとずっと一緒にいるわと言ってくれた。あの優しい娘が車で轢き殺すなんて……そんな……。
 けれども、無実を法的に立証して、一度下された判決を覆すには、彼女の財力では不可能に近く、そうなると元夫に頼るしかなかったのだ。海洋学者でありながら、ジョースター不動産会社の経営にも最近携わるようになっていると聞いている。学者というのはとにかく儲からない仕事なので、恐らく研究費用の足しにする為にそんな事をしているのだとは思うが、果たしてあの男に経営センスがあるのかどうか疑わしいと聞いた時は思ったものの、そんなことは今どうだっていい。娘を刑務所からすぐさま連れ出せるなら、もう何だって構いやしない。家に一人でいることが辛い。帰る時間もわからない相手をただじっと待つだけのことがとても辛い。ジョジョ、帰ってきて。早く帰ってきて! 水族館から、あなたを捉えて離さない海から、戻ってきて!
 ✱
 夫と離婚したのは、家庭を省みない夫を憎んでいるからとか、新たな恋を見つけたとか、そういう理由ではなく、単に不規則で連絡もなしに帰ってくる夫を待つのが辛くて、その役目から解放されたかったからだった。夫の事を悪しく言うつもりはない。悪しく言えるだけの夫婦生活の思い出もない。ただ、夫は妻や娘を愛する時間よりも、仕事を愛する時間を選び、彼女はそれに耐えられなかっただけのことで、それは夫婦生活を円滑に円満にやり過ごすことはできないという結論に至らせる要素でしかなかった。嫌いになったわけじゃないのよ、ただ信じられないだけ。
 最初はそんなことはなかった。仕事で忙しそうにしてるのも生まれたばかりの娘の為に頑張ってくれているんだと信じていたし、夫はアメリカ育ちの母親に育てられたとはいえ、酷く日本人的感覚の人だったから、シャイで自分の愛情をストレートに表すことが出来ない人なんだと思っていた。実際、付き合う前からも自分の考えている意見については驚くほどスパスパと良く切れるナイフのように発言する彼は、自分の感情について述べることを不得手としていて、なんだかそのギャップが面白くて可愛いなあと思ったのを覚えている。そういう時は195cmの身長よりも小さく見えて、彼女は彼の前でクスクスと笑いながらからかったものだった。
 だが、娘のジョリーンが高熱で苦しんでいるというのに日本の片田舎から帰ってこなかった時は流石に神経を疑った。何を言っているのかわからないとはっきりと電話で伝えてしまったほどだ。夫は自分にしかできない仕事をしていて、決してこの場所から離れることはできないと何度も主張した。後にそこで発見したヒトデに関する論文で夫は博士号を取得したのだが、博士号と娘の命を天秤にかけるなんてとショックを受けた。確かに、夫は懇意にしているらしいSPW財団から医師を派遣してくれて、診察をしてもらったのは確かだ。夫の手配であったことは医師も言っていたことだから間違いない、間違いないのだけれど、そうじゃないじゃない、と彼女は言った。自分がヒトデに掛かりきりだからって、自分の代わりに全く知りもしない医師を送り込んで、それで満足しちゃうっていうの? 娘のことは心配じゃないの?
 ジョリーンの盗難騒動の時も、今から飛行機で東京に向かうとかいって、駆けつけてくれなかった。娘が警察沙汰になっているのに、研究の方を優先した夫の考えが全く分からなかったし、とても否定的な気持ちで夫の事を詰った。勿論娘に聞かれないように心の中だけで。電話越しでも何度も縋り付いたし、何をしているのと詰ったけれど、それだけじゃあ足りなかった。
 ジョリーンも私もとても不安でたまらないのに、なんであなたは何も言ってくれないの? どこに行っているの? 何のために行くの? それはたった一人の妻と娘を置いてけぼりにする理由になると思っているの? お金さえ家に入れていれば家族関係が続くと信じているの? あなたにとって私達は一体何なの? あなたは誰を愛しているの?
 次第に夫が浮気しているのではないかという疑念が彼女の頭の隅から蛆虫のようにわいてきた。昔から夫は女性に人気で、歳を重ねてもそれは変わらなかった。寧ろ、歳を同じだけ重ねているはずなのに彼は全く見た目が老いないので、歳を重ねる度に彼は洗練された男になっていき、その磨かれた男振りの分だけまた女の人を振り向かせる。でも、昔から女の子にたかられると不機嫌になっていたから、彼女はちょっぴり不安になりながらも彼の隣にいれたのだ。その当時から抱いていたちょっぴりの不安が彼女の心をじわじわと蝕んでいった。浮気を示唆するようなものは何もない。ケータイの履歴、香水の残り香、スーツに残った女の気配も、彼女は見ていないし知らない。だって夫は世界中をほっつき歩いていて、たまに気まぐれで葉書を送ってくるだけの人だったから、外国で浮気なんてされたら、アメリカ国内の家にいる彼女には知れるはずもない。
 ジョリーンの前では頑張って平静を保っていた。出来る限り夫の話題はしない、してしまったら愚痴ばかり言ってしまいそうで怖かった。浮気だって被害妄想でしかないかもしれないじゃない、だって証拠なんて何一つないんだから……。
 そう言い聞かせながら、彼女は仕事をしないで家にいてくれという結婚当初の夫の願いを無視することにした。簡単な仕事を探し出して、賃金は高くないけれども働き始めた。仕事は楽しかった。何せ、結婚したのが二十歳で、就職する暇もなく子育てに励んでいたので、初めての仕事は驚きと新鮮の連続だった。仕事仲間ができたのも楽しかった。閉鎖的な家に引きこもるよりもずっと面白くて、日々のメリハリがついて、ああ、仕事ってこんなに素敵なものだったんだわと実感したくらいだった。
 そんなある日の事だった。夫が突然帰ってきた。彼女は職場で上司の機嫌を損ねてしまい、落ち込んでいるところだった。帰宅してリビングに向かうと、そこには普段見慣れない人物がいたから思わず空き巣かと思ったが――女二人だけの家には全く似合わないファッションセンスをした大男がリビングのソファに座って何か考え事をしていた。
 恐らく二年ぶりに顔を見た。相変わらず歳を取らない顔をしていて、二十歳の頃と全然肌の張り方が変わらないでいるのが物凄くムカついた。昔から人とは違ったファッションセンスをしていたが、更にその独創性が走っていて、彼女の知るジョータロー・クージョーとは同じ人のようで違う人のようでもあったから、彼の妻であるというのに、彼が自分の夫であるという確信が持てなかった。
「もしかして、ジョー?」
「おかえり」
 若い時からそうだったが、この男は愛想というものを知らないらしく、あの堅物のドイツ人だってもっと柔らかく挨拶する所を、そのドイツ人の二倍の堅さで挨拶するので、この男をよく知らない人からはとても恐れられていたものだった。
「買い物に出掛けていたわけじゃあないようだな」
 彼は妻の服装や鞄などをじっと見て詮索していた。そのグリーンの瞳が睨んでくるのが怖かった。長い時を経て苔が生えている大木の幹のような穏やかな緑が、嫉妬に燃えたモンスターの目をしていると彼女は確信した。シェイクスピアの物語に出てくる炎の目だ。
「退屈だったから、外で時間を潰していたのよ。いけないかしら」
「君には家にいてほしいと結婚してすぐの頃に言ったはずだが」
「家にこもっていると不健康だとは思わない? それよりも有意義に時間を過ごしたいわ」
 夫は彼女を見詰めながら立ち上がり、ゆっくりと近付いてきた。まるで人を襲う直前のグリズリーだ、下手に動けば痛い目に遭う。でも逃げなければ死んでしまう。そんな気分で夫の一挙一動を見守る彼女の頬を彼は撫でた。とても静かな動きで、何かを確かめるように頬を撫でながら、彼は自分より30cmも背の低い妻に顔を近付けるために屈んだ。とても距離が近い。お互いの吐息が感じられるほど近いことに気付いて、さっと彼女は顔を赤くしてから恥じ入った。
「働いているのか」
 責めているにしては穏やかすぎたし、確認しているのだとしたらとても脅迫的だと彼女は思った。逃げられない。身長195cmのガタイのいい男に平均的体格の女が勝てるはずがない。
「夫婦共働きなんて普通でしょ。ジョリーンももう幼くないし……」
「仕事先について教えてくれないか。そう、同僚についてとか」
「え? ええ、いいわよ……」
 夫は先ほど座っていたソファに彼女を誘導し、その目の前で腰を下ろした。真正面から夫の端正な顔を見つめることが少し恥ずかしくて目をそらしそうになる彼女の様子も気にしていない。昔から、夫はロマンを理解してもロマンスは理解しない人だった。恐らく彼女が照れている理由だってよく分かっていない。とにかく、早くこの目線から逃れたくて彼女は洗いざらい話した。同僚は男女が半々くらいの割合で、一番親切なのは5つ年上のモニカ、逆に全く人間的相性が合わないのは20歳年上の上司のマイルスでいつも誰かに怒鳴らないと気が済まないらしかったし、日本からやって来たシンノスケは愛想が良いけど何だかよく分からない人で、ロシア人のターニャはちょっと気が強くて面倒だけど悪い人じゃない、などなど。こんなことを夫に話すのは初めてのことで、一般的な夫婦間では当然のことなのかも知れなかったが、空条夫妻にとっては慣れないことだった。愚痴を交えつつ全てを話すと彼は満足したらしく、そうか、なるほどと言った。そこそこ長い話だったというのに、反応はそれだけ?
「徐倫は元気にしているか」
「もうすぐ帰ってくるから自分の目で確かめてよ」
「そうだな。時間はある」
「あるってどのくらい? まさか明日出て行くとかじゃないでしょう」
「君はいつでも聡明だな。そのとおりだ」
 夫は彼女の頬にキスをして立ち上がると、食事の時間を訪ねて書斎に入ってしまった。論文を書くのだろうか。最近はそんな作業も外で済ましてしまうことが多かったのに珍しいと訝しみつつ、キスされた頬に触れた。かつては普通のどこにでもいる恋人同士と同じくらいに愛情表現をしたはずだ。彼女も夫も積極的とは言い難かったので人前で恥ずかしげもなくくっつきあうことはなかったけれども、キスもハグも沢山した。だが、ここ数年は全くそんなこともなくて、セックスレス以前の問題だった。もうこの体は夫の熱も何もかも覚えていない。だが夫は自然な流れでキスをした。何のつもりなんだろう、とぼんやり思った。他の誰かにキスしたりしてないわよね?
 数日後、急な人事異動があった。上司のマイルスの不祥事が発覚したとか何とかで、入れ替わることになったらしい。また、何人か新たなスタッフが加わることになった。彼らはとても人が良くてすぐに馴染んだが、何となく隙がなくて彼女は夫の姿を何故だか思い出した。
 ✱
 それから数年経って、彼女はもうすでに職場で新人育成を何回もこなして、そこそこのポストに落ち着いた。幾つかの資格を取り、仕事用のパソコンもグレードアップさせた。離婚する前から働いていてよかったと思った。今の上司はとても理解ある人で、離婚したばかりの時もしばらく休むべきだと無理やり有給を取らせてくれたので、心の整理をすることが出来たし、娘が殺人の容疑で逮捕されたと言ったらまた有給を与えて暫くしたら戻ってくるといい、私はいつでも君を歓迎する、君は仕事の引き継ぎのことを考えなくてもいいから休むんだと一週間の時間をくれた。
 その一週間が過ぎようとしている。夫に連絡をとったものの、流石に一週間ではどうにもならない。それでも何らかの報告が欲しかったのに何もない。何故音沙汰がないのだろう。まさかこんな時になっても娘を無視するほどの非情な男だとは思いたくない。確かに、彼女から電話した時に驚きと静かな怒りが機械越しからも伝わってきた事は忘れていない。
 何に対する怒りだったのだろう。もう何年も会っていないから、夫の過ごしてきた時間や、夫が出会った人、別れた人、どこで、何をして、何を得て、何を失い、何に従って、何のために生きるのか、分からない。知らない。彼の感情がどのように起伏し、変化し、流れ、消え行くのか。何に美しいと心打たれ、何に地団駄を踏み、何に涙を流し、何に微笑んだのか。知りたいけれど、おそらく彼は彼女に教えることはこれから先ない。教えて欲しいと今でも思っている自分が惨めで哀れだった。嫌いになれたらいいのに、臆病になるだけだった。待つということが苦痛で逃げただけの彼女を夫は責めたりしなかったし、逆にその苦痛を今後与えないよう努力することを誓うこともしなかった。決定的にもう共に生きていくことができないのだと無言の背中に教えられた時の絶望感を忘れたい。忘れられない。あの大きな背中を追いかけるだけの勇気がほしい。捕まえられなくてもいいから、追い駆けたい。でも、追いかけたら嫌われてしまいそうで怖い。昔から鬱陶しい女が嫌いな人だった。今もそれだけは変わらないはずで、だから追いかける前に足が竦んでしまって、どんどん遠ざかる背中を見つめることしか出来ない。
 JOJO、おいていかないで。戻ってきて。追いかける女が嫌いだというのなら、連れて行って。頑張るから。待つだけなのが嫌なの。あなたに比べて小さい私はあなたと同じペースで歩めない事は分かってる、でもおいていかないで。
 あなたの事を知りたい。そう思って友達になって、恋をして、結婚した。二十歳のあなたは未だに私の胸の中で仏頂面のままそばにいてくれる。でも私は今のあなたの傍にいたい。
 それだけなのに。