数カ月ぶりに帰宅すると、妻はお久しぶりね、と挨拶をした。その声は冬の風のように冷たく容赦がなかった。ただいま、と返しても彼女の表情はちらりとも変わらないで、ダイニングに向かう承太郎の後ろをただ静かに黙って付いてきた。手荷物を置き、家の様子を見る。何だか少し物が減ったような気がする。いや、そんなことはない、徐倫の私物が所々に散らばっている。寧ろ増えている筈だ。それでも以前帰宅した時よりも空疎になったように見受けられた。寒々しい。この家を買った当初にはなかった気配が空間を侵している。
「離婚しましょう」
承太郎が振り向くと、彼女は腕を組んで立っていた。こちらを見ていない。泣いてはいなかった。ただ無表情で無感情に要求を述べただけだ。
彼女はもう一度、離婚しましょ、してよ、しなきゃだめ、と繰り返した。徐倫は今不在なのだろう。二階にある徐倫の部屋からはなんの物音もしなかった。
「あなた、ちっとも連絡をくれないじゃない……。海の上だから仕方がないって分かってるわよ、知ってるわ。でもね、何年も会わないでいると、あなたの存在自体を疑っちゃうのよ……分かる? あなたの顔も思い出せないわ……。そりゃ写真はあるわよ、一緒に撮ったビデオだってあるわ。でも、そうじゃないのよ……分かるわよね? それによ、この広い家にあたしとジョリーンを押し込めて、あなたはいつも仕事仕事……。ジョリーンが高熱を出した時も、ジョリーンの盗難騒動の時もあなたはいなかったわ。心細くて堪らない時、あなたはあたしを支えてくれないわ。ジョリーンを抱きしめてくれない。もう無理、無理なのよ……ジョー、別れて」
ニュースキャスターが遠い場所で起きた悲劇を淡々と語り、テレビの前にいるであろう視聴者に向かって伝えている声の方が余程暖かみがあると思えるような声だった。それから妻が別れたいと思った経緯を淡々と、一つずつ石を積み上げるように、丁寧に述べていくのを承太郎は聞いていた。声を荒らげたり、激しい言葉で語りはしなかったが、彼女は承太郎をかつてないほど責めている。妻の積み重ねる石は次第に重さを増し、少しずつ承太郎の体から自由を奪っていくようだった。それでも、承太郎はこちらを少しも見ようとしない妻をじっと見つめていた。
彼女と出会ったのは、日本の高校を卒業後、米国某大学に留学した時だった。何かの資料を探すために承太郎は大学図書館を訪れていた。資料はすぐに見つかり、その他にも関連資料をついでに借りようと棚を移動した時、たまたま彼女を見た。大学が提供しているAV資料を見るためのスペースで彼女は泣いていた。その時、画面に写っていたものが何だったのかを未だに承太郎は知らないが、緑にも青にも見える瞳が潤んで、涙が溢れて肌を伝ってぽろぽろと流れていく様を見てしまった。承太郎は何も見なかったかのように振る舞ってその場を去った。女が一人、泣いていたところで何かを思うわけではない。ただ、人気のない部屋で、涙をぬぐいながら何かをじっと見つめていた彼女はちょっとした異質だったからふと見てしまっただけのことにすぎない。
自室に戻って、借りてきた資料を広げて読み始め、時折メモを取った。休憩しようと資料から目を話した時に漸く気づいた、スタープラチナが先程図書室で見たものを描いていたのである。ぎょっとしながらも、その絵を見る。豪胆な攻撃とは裏腹に精密な動きを可能にするスタープラチナの描いたものはまるで白黒写真のようで、正確に彼女をズームアップしていた。髪の長さ、流れ、頬のやわからなふくらみ、額から鼻、唇を通り顎を過ぎて細い首に連なるその曲線をも記憶通りに描かれている。暫く見たあと、承太郎はその紙を四つ折りにしてゴミ箱に捨てた。
次に彼女と出会ったのは何かの講義の時だった。友人と話している彼女の顔を見て、あの時泣いていた女だと気づいたが、だからといって何をするでもなく、身長のせいで後ろの席に座らざるをえない承太郎は、前の方の席に座る彼女をもう一度見た。彼女はもう黒板を見つめていて、後ろ姿しか見えなかった。
それからどうやって彼女と知り合ったのかをよく覚えてない。特別な何かがあったとは思われない。自然と知り合い、承太郎はJOJOと呼ばれ、彼女の名前を知った。暫くして、承太郎と彼女は昼食を共にすることがあった。何を食べていたかは覚えている。アメリカでは広く親しまれるハンバーガーだ。彼女は承太郎よりも小さい手でそれを掴み、齧り付いていた。ぱくりと口が開き、ハンバーガーを迎え入れるようにして、体が前に傾く。白い歯がバンズに食い込み、挟まっている肉や野菜ごと食いちぎる。閉じられた口の中で歯が動き、咀嚼している。その様子を承太郎は彼女の話に相槌を打ちながらじっと見つめていた。その後も、彼女と食事に出かける度、彼女の唇、歯、手、頬の動きを承太郎は観察していた。観察していたからといって記録は取らなかった。時々、スタープラチナで見たものを描いてしまうことがあったが、その度ゴミ箱に捨てた。
承太郎が彼女と付き合い始めたのは初めて彼女を見た時から一年程経った頃だった。友人としての信頼を築き、互いに立派な学生であると認め合ったあとのことである。承太郎は彼女に対して独占欲を抱いていることを認めなければならないと唐突に自覚し、彼女に恋人として付き合うことを申し出た。彼女は嬉しそうに頷いた。何が嬉しいのかわからなかったが、悪い気はしなかった。
承太郎は彼女の行動の癖や、どういう気分の時にどのような声で話すのかをその頃にはもう知っていた。彼女は悲しい時はあまり泣かなかった。唇をぎゅっと噛み締めて耐えている姿に承太郎は何かを煽られた。そういう時は手を握り、目を合わせて話をする。極めて近い距離でするのがよい。時折頬に触れて、キスをする。彼女はそれで漸く微笑むのだ。
セックスをするときは、体格差がありすぎて苦労している様子であったが、彼女は承太郎の体を好きだと言った。星型のアザを見て、彼女は何度もそこにキスをした。承太郎はそのたびに彼女の唇にキスをした。やわらかく、あたたかく、ちいさい。それが彼女だった。
結婚をしたのは彼女がそう望んだのと、承太郎が互いの家を行き来するよりも同じ家にいて朝を共に迎え、夜には抱きしめて離れない喜びをわかちあいたいと思ったからだった。しかし、徐倫が生まれてすぐに恐ろしい事実が祖父ジョセフ・ジョースターとスピードワゴン財団の専門研究チームによって明らかにされた。DIO――承太郎の高祖父に当たるジョナサン・ジョースターの義兄弟でありながら、仇であり、吸血鬼という奇妙で特殊な存在であり、あらゆる悪を詰め込んだような男の配下達が承太郎の命を狙っているということであった。DIOを倒した男、DIOの日記について知る者、DIOと同じく時を止めることのできるスタンド使い。それが連中から見た承太郎の姿であった。
承太郎は妻にも娘にもその事実を明かすことはできないと判断した。スタンド使いではない妻や、ジョセフや承太郎のスタンド使いとしての血が遺伝しているであろうが未だ幼い徐倫を危険に巻き込むことは許されざることであった。
故に、アメリカを離れる時、あるいは家族の用事を断る時はすべて学術研究の仕事のためと偽って妻や徐倫には説明した。実際、海洋に出ると何ヶ月も帰ってこれないので、妻は当初それを信じていたが、だんだんとそれが嘘なのではないかと疑い始めた。彼女は承太郎の嘘を見破ったのではなく、何かを勘違いしているようで、それは大変不名誉なことだと承太郎も漸く分かったが、それを訂正することはしなかった。一度疑いを持った人間の心に再び信頼をもたらすためには長い時間が必要である。冷たい石を温めるのに要するよりも長い時間が。しかしながら、相手が信頼する条件を十分に満たし、その信頼を確固たるものにするには、承太郎には時間がなかった。DIOに心酔するスタンド使いの数もその能力も把握できないでいるのに警戒しなければならないことが承太郎には非常なストレスであったし、また、母ホリィのような愛情を素直に表すことを承太郎は苦手とする。当然、愛情だけではなく、一体何がその心を疲弊させ、家族との時間を奪っているのかを妻に素直に話すことは承太郎にはどうしてもできなかった。スタンドの事を上手く誤魔化して話してしまえばいいのに、と誰かが承太郎にいったことがあったが、承太郎はそのスタンド能力のような精密で正確で適切な処置を妻と娘には施せないのだった。
徐々に彼女の心が承太郎から離れていくことを、帰宅するたびに感じていたが、弁解はしなかった。何をどう説明すべきか承太郎には分からなかった。
その結果が今の状況だ。承太郎は彼女以外の女に心を動かされたことはなかった。彼女の観察をやめたことはなかった。それを彼女は知らない。知るはずもない。承太郎は彼女に何も伝えなかった。彼女が承太郎について知っているのはそのことだけだ。
「なにか言ったらどうなの、ジョー?」
雪の降る夜よりも冷たい顔をしていた彼女が漸く苛立ちを見せた。恐らくもう手遅れだ。彼女に春をもたらすことは承太郎には無理なのだ。雪解けの季節は二人の間にもう訪れてはくれない。
「……君の望むようにしよう。慰謝料に関しても」
承太郎が渾身の力で振り絞って捻り出した言葉を聞いて彼女は到頭泣いた。涙がその青にも緑にも見える瞳からぽろぽろとこぼれおちた。
「なんで、すぐに、受け入れるのよ! あなたっていつもそう――私に関心がないなら、愛していないなら、どうして結婚なんてしたのよ……! 返して、私の時間を返してよ!」
彼女は承太郎を睨んだ。何年ぶりに目を合わせただろうか。彼女への罪悪感が承太郎を臆病にさせていた。DIOを斃すための旅の時でさえ、驚いたことはあれど、激情したことはあれど、こんなにもじわじわと追い詰められ、魂が薄いガラス細工になってしまったのではないかと嘆きたくなるような気持ちにはならなかった。その始まりは彼女に初めて嘘をついた時である。今もそれは変わらない。どんなスタンド使いにも折られることのない心が、彼女の前では壊れかけのブリキのおもちゃになるのだ。
<スタープラチナ・ザ・ワールド>
彼女の動きが止まる。涙も嗚咽も何もかも動かない、ほんの数秒の静止した世界で、承太郎は彼女の唇にキスをし、涙をぬぐった。しかし、彼女はキスされたことも、涙をぬぐわれたことも知らない。永遠に知ることはないだろう。知ってほしくないとは思わないが、知らないままでいる方が彼女にとっても、崩れてしまった承太郎と彼女の関係のためにも、いいことだろうと承太郎は判断した。
承太郎は、やわらかく、あたたかく、ちいさな彼女の心をズタズタに傷つけたのだ。彼女は承太郎にとって回帰する海であり、心を休める港であり、行路を示す灯台だった。そして初めて手に入れたいと願った女だった。そのすべてを知りたかった。承太郎は自身のすべてを彼女に拒まれた。これは罰なのか。
時が再び動き出す。彼女はいきなり目の前に立つ夫に動揺を隠さなかった。そうとも、彼女は何も知らない。承太郎の精神の分身であるスタープラチナは見えない。見えないからこそ愛したのかもしれない。自分の感情をすっかり理解できる人間はいない。だが、承太郎は自分を責め立てるこの女を愛している。守りたいと思う。何も話さない自分を許してくれなどとは言わない。ただ、ずっと彼女を見ていたかった。それだけだ。それだけなのだ。
「私がこの家を出ていこう。君と徐倫がこの家に残るか、それとも新しい家を買うのか決めてくれ。金は出す。徐倫の学費に関しての補助はする」
承太郎の言葉に、彼女は驚愕から目が冷め、再び沈黙と共に新月の夜の顔をした。月明かりも何もない夜の顔だ。
「いいえ、家の購入費用だけにしてちょうだい。あなたとの縁をすべて切りたいの」
「……いいだろう、私ができるのはそれだけだ」
つい五分前に置いたばかりの荷物を手にして、彼女に背を向ける。すぐにスピードワゴン財団に手配して私物を回収しなければならない。暫くはホテルに住まうことになるだろうが、この数年はそれが当然の生活だった。この家の処分について手続きをしなければならない。やらなければならないことがたくさんある。時間が惜しい。
「Good-Bye, JOJO」
彼女の涙で濡れた声がいつまでも空っぽになってしまった承太郎の胸の中で木霊していた。
