猿と右目

 小十郎は後ろに感じた気配が誰のものかを知り、はあと溜め息を吐いた。相手は苦笑して「そんなに嫌そうな態度とらなくってもいいでしょ」と言った。飄々としていて、敵地だというのに警戒もしないでいる相手が鬱陶しい。小十郎は振り向きもせずに、畑仕事を続けた。

「何度言えば分かる。ここは奥州だ。政宗様のお膝元で何を企んでやがる、猿飛?」
「なーんにも。強いて言えば、右目の姐さんとお付き合いしたいなーなんて」
「くだらねえ。帰れ」
「連れないねえ」

 猿飛佐助は、先日、川中島にて武田軍と上杉軍が対立しているところを乱入した際に出会った忍であった。あそこで、小十郎の主君である政宗は運命のらいばる(好敵手という意味だと教えられた)と相見えたのだが、そのとき、二人の戦いに水を挿したこの男は、何故だか小十郎を気に入ったらしく、ずっと付きまとってる。正直、忍ならば主から与えられた仕事が山のようにあるはずなのに、この猿飛佐助はそんな様子を見せなかった。

「ねえ、右目の姐さん、武田につく気はない?」

 小十郎はそんな馬鹿なことを平気でへらりと言ってしまう猿飛が嫌いだった。もともと厳しい顔つきであるのに、小十郎は更に顔を顰めた。不愉快極まりないという態度を隠しはしなかった。

「馬鹿なことを言うんじゃねえ。俺は今生の主君は政宗様だけだと決めている」
「そういうところ、かっこいいねえ」
「無駄話をするだけなら帰れ。まだ政宗様にはお伝えしてない」
「おや、優しい。駄目じゃん、そういう優しさを見せ付けられると、俺様、付け入っちゃうよ?」
「てめえが斬られてえなら、いつでもかかってきやがれ」
「忍がそう簡単に斬られて堪りますかっての」

 くすくすと猿飛は笑う。忍というのはもっと物静かで主君に従順であり、このような余計なまねをするものではないと思っていた小十郎は、呆気にとられながらも、猿飛の言葉一つ一つに苛立ちを感じていた。この男が言うには、戦場で出会ったとき、一目見て惚れてしまったのだとか。それを告白された後に続いた言葉の数々を思い出すたび、小十郎は鳥肌が立った。忍というのは軽々しい口であんなにも歯の浮く台詞を言えるのだろうかと真剣に考えた後、こんなことをするのは猿飛佐助だけに違いないという結論に至った。政宗の抱える黒脛巾はもっと寡黙で忍らしい忍たちである。

「その強気な目、いいねえ、甚振りたくなっちゃうだろ」
「変態だな」
「違う違う、そういう頑固そうな目を見てると、ついつい構いたくなっちゃうだけさ。変態っていうのは織田の明智みたいな奴のことだぜ」
「俺にはお前も明智も変わらねえ」どちらも敵だ。

 キッと小十郎は佐助のほうを振り向いた。相変わらず、派手な格好の忍である。緑の衣装の下には頑丈そうな鎧があり、傷つけることは難しそうではあったが、体格で言えば、互角である。小十郎は女にしてはがたいがよかったし、猿飛は男にしては全体的にほっそりしていた。身軽でなければ忍はつとまらないからねえ、と以前勝手に呟いていたのを、何故だか覚えていた。
 猿飛はにやにやとした顔のままで、ゆっくりと小十郎のほうへ歩いた。からかっているようにも見えた。小十郎が苛立ちの末に攻撃しないかどうか誘われている気がした。だが、明らかに猿飛よりも小十郎のほうが年は上だったし、ここは小十郎の大切に育ててきた畑である。あんまり年甲斐もなく暴れまわるのは得策ではなかろう。

「あーあ、竜の旦那が羨ましいぜ。こんな美人と毎日顔を合わせられるなんて!」
「黙れ」
「あ、照れた?」
「煩い男だな」
「煩い男は嫌いなの?」
「俺は誰も好きにはならねえ。この心身は政宗様に仕える為にある」

 小十郎は初めて政宗と出会った頃から覚悟を変えていない。もう既に元服も終え、正室を迎えたが、政宗の心の奥底は変わっていないのだから、当然である。政宗を愛し、その背中を守り、そのつぶれた右目の代わりとなるのが、小十郎なりの忠誠のあらわし方であり、また、愛情表現であった。女として愛されることは望んでいない。どんな男にもこの身を触れられたくはない。女に成り下がれば、いつかは夫を選ばねばならないし、そうすれば自然と政宗から離れてしまう。そんなのは嫌だ。だから、姉の喜多にだけ相談して、子を孕めぬ体に貶めた。子を孕めない女をわざわざ娶ろうなんていう酔狂な男はいないと信じたからだ。命を落とす危険もあったが、それでも子を孕んで政宗から離れるよりはマシだと思った。水銀を飲んで、少しばかり寝込んだ後、再び政宗の前に参上したとき、政宗がひどく傷ついたような顔をしたのは、予想していなかった。あのときの顔を、小十郎は忘れない。政宗は馬鹿な女だと思い哀れんだのか、蔑んだのか。戦場や政になれば、言葉を交わさずとも分かる主の心が、そのときばかりは見えなかったのを、小十郎は悔しく思っていた。

 政宗様、あなた様を天下の主に導くのが、この小十郎の役目なれば、子などは要りませぬ。女であることを厭いまする。男に負けるわけにはなりませぬ。あなた様の背中をお守りするには、軟弱な心を捨てるべきだと信じたが故の判断でございます。どうか、哀れとお思いなさるな。小十郎はあなた様にお使えできることこそが、至上の喜びなのです。あなた様に右目でいろと仰せられることがどれほどの喜びか! あなた様の背中を誰でもないこの小十郎に預けて下さることが、この小十郎にとって誇るべきことなのです。ですから、あなた様は小十郎めがどのようなことになろうとも、前だけを見て進んで下さいませ。後ろはこの小十郎が。

「ホント憎いねえ、右目の姐さんにそんな顔させるなんて。独眼竜も罪な男だぜ」

 もう何だってこんなに美人なんだろうねえ、と猿飛は頭を掻いた。その目は小十郎をまっすぐ射抜いていたが、小十郎は臆すことなく、睨み返した。喧嘩ならば買ってやらんでもない、とばかりの態度に、猿飛はまた苦笑した。

「ねえ、アンタ、女になりたくないわけ?」
「女なんざ、とうの昔に捨てたぜ」
「子の孕むところだけ傷つけただけだろ? 気持ちいいことはできるじゃん」
「そういうことは花街か自分の女に頼め。俺は関係ねえ」
「……どんだけ堅物なんだか。うちの真田の旦那と張り合えるよ」

 お手上げ! というふうに肩をすくめる猿飛に、小十郎はもう用がなかった。ここまで殺気を向けているのに、一向に出て行こうとしない馬鹿な忍には付き合っていられなかった。小十郎には政宗のために丹精こめて育てている野菜の世話のほうがよほど大事であった。こうして話している間にも、時間は過ぎ去ってしまっているのだ。

「いい加減、帰れ。真田も困っているだろう」
「あ、それは大丈夫。真田忍隊は粒揃いだからね。安心して右目の姐さんを口説けるってわけ」
「……てめえ、冗談はそこまでにしろ」
「冗談じゃないって。本気で右目の姐さんに惚れちまったんだぜ、俺様」
「馬鹿馬鹿しい、大体、俺が孕めねえことを知ってるんだろう? 何故、俺に構う」

 何かしらのぼろをこの男が出すとは思えなかったが、小十郎は怒気を含んだ声で猿飛に訊ねた。こんな男が付きまとうなんて、想像もしていなかった。伊達軍は小十郎が女であることを知っていたが、手を出せばその腕が両手とも切り落とされる上に、政宗から厳しい罰を――それこそ、死ぬ可能性しかないような罰を与えられることを知っていた。一人だけ調子に乗った馬鹿がそういう目にあったのだ。以来、小十郎を女扱いする馬鹿な輩は伊達軍から消えうせている。お陰で、言い寄ってくる男の処し方など、小十郎は知らなかったのだ。猿飛が初めてである。だが、この男は敵であるから、これは小十郎を手篭めにして伊達軍に何かしらの害を与えるのが目的であるということを小十郎は想定していた。そもそも、これが真田幸村のような見るからに純朴で何の疑いも持たず、姦計などというものから程遠い人物だったならば、小十郎はここまで警戒しなかっただろう。相手が猿飛佐助であることが問題なのだ。

「一目ぼれってどうしようもないだろ?」

 そう言って小十郎を熱っぽく見つめる猿飛の演技力に、小十郎は拍手を送りたくなった。

「アンタのその顔――凄く綺麗だからさ、女になれてる俺様も思わず見惚れちまったよ。鍛えられた体もしなやかで野生的で、俺様の好みそのもの。加えて、その頑固な性格が、俺様を余計に燃え上がらせちまう」
「大した茶番だ。世辞なら他の女に言ってやれ」
「ねえ、右目の姐さん、アンタは独眼竜に愛されたいって思ったことはないわけ? アンタ、随分と過ぎた熱い目で自分の主の事を見てるの、知ってた?」

 小十郎はかあっと顔が赤くなるのを感じた。侮辱されたことと、知らなかった恥ずべき事実を知らされたことに対する羞恥だ。猿飛がやたらと珍しがって、喜んだ。「かっわいい! 美人が照れると可愛いなあ!」悔しいのと腹立たしいのと恥ずかしいので、小十郎はどうにかなってしまいそうだったが、手にしていた鍬を猿飛のほうに向かって構えることで、漸く落ち着きを取り戻した。

「俺は! 政宗様に不埒な思いを抱いたことはねえ!」
「またまたー。そんな嘘を言って強がってるところも、いいんだけどさ。可愛いねえ、うんうん」
「黙れ、猿飛!」
「美人って凄いわー。怒ってても照れてても可愛いんだからさ」

 んじゃね、と猿飛は大笑いしながら、どろんと姿を消した。糞っと吐き捨てて、猿飛の言葉を思い出してしまった。

――独眼竜に愛されたいって思ったことはないわけ?

 瞬間、恐ろしいほどの欲が噎せ返りそうになったのを押さえつけることに、小十郎は必死だった。勿論、思ったことは数知れない。愛されることがどれほどのものなのかを、想像したことがないとは言わない。あの六爪を操るたくましい手に愛撫されることを考えたことがないはずがない。美しい唇から囁かれるだろう情熱的な睦言をこの耳の傍で聞いてみたいと思ったことが何度とある。隆々としていて、なおかつ、絶妙な繊細さのあふれる肉体に抱かれたいと思うのは、女ならば当然だった。だが、小十郎は、「片倉小十郎」なのだ。独眼竜の右目として、その背中を守る存在として、第一の家臣として生きることを、幼かった政宗の飛び出た右目を取り除いたときに誓ったのだ。その誓いを自ら汚すような真似は出来なかった。それに、政宗が小十郎のことを見つめるのは、政宗が信頼できる女が姉の喜多と小十郎だけだからに過ぎない。それ以上の意味などないことを、小十郎は肝に銘じていた。分をわきまえない思いを抱いてなんになる。そんなものは、家臣である「片倉小十郎」には必要でなかった。必要なのは揺るがぬ忠誠と冷静な軍事的判断力であった。時には主を諌め、時には厳しくあたり、そして常に君主への敬愛を忘れずに。
 それが、小十郎の選んだ道なのだ。今更後悔などは覚えない。後悔などするはずもない。けれど、小十郎は唇をかみ締めた。思い出せ、俺は女でも男でもない。だからこそ、政宗様のおそばに仕えることができるのだということを。