君に帰る道

 薫は溜息をついて茶屋の外を眺める。出稽古帰りで、付き添いできていた剣心と弟子の弥彦は先に帰らせていた。なにせ、一人になりたいと思っても大勢の人がいる家では無理な話なので、適当に言い繕って強引に時間を作ったのである。昔は一人が嫌だったというのに現金なことだが、そうは言っても考え事に耽りたいと思わせている原因がそばにいるので、そうなると家の外しかないのだった。
 往来には様々な人がいる。老若男女、それぞれの用事に急いでいたり、或いは話に花を咲かせたり、とにかく見ていて飽きないのだが、そんな中にちらほら見える若い男女の連れをつい見つけ出しては、そっと目が追ってしまう。仲睦まじげにぴったり寄り添っている姿は以前から見たことのあるものだというのに、今は全く違う心持ちでそれを見ている。彼らがどういう経緯でそんな関係に落ち着いたのかを考えてしまうからだ。男はどんな言葉を女に贈るのだろうかとか、女はその言葉にどのように返しているのだろうとか。
 薫には思いつかなかった。路頭に迷った可哀想な人は、ついに道を見つけたらしいが何故かその道に薫を誘った。その時の薫はそれに対する答えを持たなかった。当然といえば当然の筈だ。そんなことを言われるとは思ってもみなかったし、そんな素振りは一度も見たことがなかったからだ。しかし、庭に落ちた紅葉の葉で一番キレイなものを薫に渡してきたことや、その時に言われた言葉から、あれはこの先も共にいてほしい、ただの居候より一歩踏み込んだ関係になりたいということなのではないか。見守ってくれないかなんて、それって、えっと? と薫は頭を抱えてしまう。
 嫌なんて少しも思ってないけど、剣心は大切な人だけど、そんな、本当に? 人と関わることに少し奥手で、どんなこともさらさらと逃げて交わして親しい仲になるのを避けているように見えたのは間違いないはずだ。それを悲しいことだと思って、薫は剣心がひとりぼっちにならないようにいつも気を付けていた。そうでなければいつの間にか出ていってしまうのではないかと危惧もしていた。実際、出ていかれた時は、あんなに悲しい人を送り出すことなんて出来やしないと追い掛けたのだが、それは剣心に関わった者としてあの男が幸せになれることを祈った為だった。
 それは、剣心が求めるものとは違う気がする。あの人が薫に求めているのは、あの人に寄り添ってこの先もあの人と生きていく事であって、それは往来で何度も見かけた夫婦のようなものであって、師匠が弟子を見守るようなものではなくて、と更に悩ませていると、薫ちゃん?と声を掛けられた。
 顔をあげると、昔から知っている近所に住むお初という人だった。薫よりも少し年上で、昔からやんちゃな薫を心配してくれていた。今はもう嫁いだと聞いていたので、昔ほど仲良くはないが、のんびりした彼女の顔を見るとなんだかホッとしてしまう。
「やっぱり薫ちゃんだ! おかえり〜、京都まで行ってたって聞いたよお。京都はどうだった?」
「お初さん、お久しぶり。京都はよかったわ、とてもいい所だった」
「あちこち見て回ったんでしょ? よかったら話をきかせて」
 薫の隣に腰掛け、微笑む彼女は剣道に勤しむ薫よりずっときれいで可愛らしかった。そんな彼女に促されて京都でのいい思い出を語る。京都にいきなり向かった理由や酷い目に遭ったことなんかは話せないが、確かに町並みや雰囲気が東京とは違っていて面白かったし、言葉遣いも全く違っていて、噂に聞く外国に行ったような気分だった。そういえば、剣心はかつて京都でその名を轟かせて伝説となった。その過去と折り合いがついたから、あんなことを言い出したのだろうか。
「薫ちゃん、何かに悩んでるね。どうかしたの?」
「えっ」
 ドキッとしたが、昔から顔に出やすいのでお初なんかにはバレバレなのだろう。素直に白状するしかないかな、と薫はつい最近食客に迎えた男から言われた言葉で悩んでいることを話した。お初は全てを聞き終え、それからにこっと笑った。
「薫ちゃんにも春がきたのねえ」
「お初さん! わ、私、そんな」
 くすくすと笑われて、年上の女の人には勝てないと諦めた。恵にも口では勝てないが、お初のような穏やかな人には反論し難い。
「いいじゃない、見守ってあげましょうよ。私も神谷道場にいるあの赤毛の人は知ってるわ、とても親切でいい人だと思う。ちょっと頼りなさげだけれど、薫ちゃんみたいなしっかりした子なら、ちょうどいいと思うし」
 頼りなさげ、というのは確かにそうだと思ってしまう。刀を帯びているくせに、剣客らしい威圧感や独特の雰囲気がないのだ。恐らくそんな顔にならないように気をつけているのだろう。あの人は、何から何まで普通とは少しずれていて、市井のなかに溶け込むには人とは少し変わった努力が必要で、それを面倒だとは思っていないようだが、他人に自分を受け入れてもらえないと一歩引いてしまう節があった。
 どれだけ日々を共に過ごしても、見えない壁があった。だけど、あの時、紅葉の葉をくれたあの人はようやくその壁を薫との間に立てないようになった。それは、とても嬉しかった。けれど、やっぱり剣心と薫ではその喜び方が違う気がする。
「私だって、剣心はとてもいい人だと思うわ。優しいし、家のことを手伝ってくれて、何でもしてくれるし。でも、一緒になってほしいなんて言われても、私はあの人が求めているような事ができるかどうか」
 神谷活心流の師範にはなれたが、薫とてまだまだ修行の身であり、未熟ゆえに、剣心を見守るなんて言える立場ではないことは間違いないし。
「そんなむつかしく考えなくていいのに。求められているなら応えるだけよ。私だって、どうか嫁にほしいと言われただけで何とも思っていなかったけれど、今は楽しく暮らしているし、何事も始まらない内から悩んでいたって仕方ないでしょう?」
 それは一理ある。何も始まっていないのに悩んで、剣心を避けるように茶屋に籠もっていても解決はしない。それだけは間違いない。
「ありがとう、お初さん。ちょっと頑張ってみる」
「そうね、頑張ってるほうが薫ちゃんらしいわ」
 応援してるからね、と微笑んでお初は席をたった。それを見送ると、薫も帰路につく。

 家に帰ると剣心は洗濯物を干していた。慣れた手付きで家事の何もかもをしてくれているのは、実はとても大助かりで、頭が上がらない。そっと見ていただけだが、剣心はこちらに気付いて、嬉しそうにお帰りと声を掛けてくれた。それが本当に小さな喜びを噛み締めているようで、この人の人生が今まで見たようなことばかりなのだとしたら、帰る場所になってあげたいと思ってしまう。その気持ちが、剣心のあの時の言葉の答えなのではないかしらとは思えども、それをいきなり伝えたり態度で示すのは難しくて、とにかく普段どおりにただいま、と薫は返した。

 生きていくというのは驚きの連続の中を掻い潜るということなのだとここ最近剣心は実感していた。親兄弟と死に別れて人買いに売られて惨めな先行きを漠然と予想していたら、山に籠もる剣術家の弟子になり、そのまま剣の道を突き進めばよかったものを血気盛んなままに倒幕派へついては人を斬り、妻を得て失い、このような己に良い先など訪れないかと思いきや、十年の旅を経って出会った少女に心底惚れるとは、本当に人の生きる道とは思いがけないことばかりである。
 その彼女はというと、先日の剣心の言葉に随分と動揺して今の所かすかな距離を置いている。あからさまではないことが救いであるし、まだ脈があると思ってもいいのだろう、嫌なら嫌とはっきり言うだろうから、希望は持てる。惚れた腫れたに慣れていないだけだろう。そう言い聞かせて、ひっそりと袖を濡らしそうな己の心を守っている。
 剣心とて、年だけは重ねてしまったものの、年相応の女の経験というものはとんとない。付き合えと強引に倒幕派の連中に誘われた先で添い寝だけして何もしなかった程だ。男女の駆け引きなどは全く疎い。女に興味がないなら男かと言われたりもしたが、そうではなくて、単に無防備な姿になることも、自分の欲を人前に晒すこともできなかっただけだ。人との関わりを持つことが不得手なのだろうと後から思うようになった。人を殺して回るような自分が、どのようにして関わっていけるだろうか。或いは、交わりを減らすことで人を人とも思わぬほどの鈍感にならなければあの時は正気を保てなかったのかもしれない。
 そんな過去の姿に戻ることはできない。あの時のようなことを繰り返せば今度こそ人の心を失うだろうし、薫に惚れてしまった以上、どんなに下手くそでみっともなくても、彼女を手放さないよう必死にならなければならないのだ。それは生きることと同義だろう。だから、あの死人のような日々には戻ることはできない。
 ただ、薫に微妙に避けられているので、胸が痛くて心が死にそうなときもある。言わなければよかったと後悔するが、しかし言わなければ彼女は何とも気付かずに食客として剣心の面倒を見続けるだけのような気もする。つまり、言わねば何にも始まらないのである。
 良い方に転べばこのまま居座ろう、だめであれば胸が裂けそうになったとしても再び旅に出るしかあるまい。恋仲になれなければ離れるなど子供のようだが、いつか別の男に嫁ぐ所まで見届けられる程寛容ではないのだ。
 溜息を吐きそうになるが我慢して、風呂の用意をする。薫は気丈で気風のいい女だが、剣術にばかり励んで家事が疎かになるので、剣心がそれらの世話をするようになっている。殊、料理に関しては比べるまでもないので、彼女も開き直って全てを任せてくれている。もしもうまく行かなくてここを出ていくとして、こういった世話を最近増えてきた門下生達がするのだと考えると嫌になるのだから、なんと我儘なことだろう。他の男の作ったものを食べて幸せそうな顔をされたらなんて考えるのもおぞましい。やはり、自分はあの一回り近く年下の娘に惚れ込んでいるのだ。
 だから、避けられているのを早く何とかしたいが、こういう時に追い詰めるような事を言えば、薫の心を考えない余裕のない男と思われるだろう。いや、余裕はない、ないけれど、あるように見せるのも大事なことではないか。男には痩せ我慢すべき時があるだろう、今がそれだ。滑稽であるかもしれないが、我慢せずに愚かなことをしてしまうよりずっといいし、馬鹿なことをして幻滅されたくもない。つまり手詰まりである。
 男の馬鹿な悩みが頭の中でぐるぐると回っている間にも風呂が焚き終わったので、薫に一番風呂を声掛けようとして、彼女がこちらをじっと見ているのに気付いた。何か言いたげな様子で──今までに見たことないくらいの奇妙な面持ちだ──剣心に寄ってくる。何がどうしたというのだろう、確かに今日は出稽古帰りに先に戻っていろと言われて家事をしていたがそれが何か気に触ったというのだろうか。いやいや、そんな我儘な女ではない。
「お風呂上がったら話があるの、私の部屋に来てくれる?」
 言い終わった後、さっと顔を逸らしてそのまま風呂場に入ってしまったので剣心は返事ができなかったが、内心どうしようかとその場で蹲った。

 薫の後に弥彦が風呂に入り、その後に剣心が入る。湯船につかり、はあと大きく息を吐く。ぼうっと天井を見ながら薫のことを考えて、何があってもみっともないところは見せないでいようと腹を括ることにした。剣心が今薫に望んでいることは、決して剣心一人でどうこうできるものではない。薫の気持ち次第なのだ。それは誰にも強要できないことだから、どんな事になろうとも受け入れるしかない。

 薫の部屋に行くと、彼女は正座で目を瞑っていた。襖の音で剣心の来訪を知るとこちらを見た。やはり険しい顔をしているようにしか思えない。希望を持てるかと思っていた数日間が粉々になってしまいそうだった。それでも薫の前に座り沙汰を待つ。
「この前の言葉の返事なんだけど」
「うむ」
「剣心が望んでるようなことが私に出来るかどうか分からないわ」
 やはりだめだったか、と剣心は胸の痛みを抑えつつ苦笑する。とにかく最後まで話を聞かねばならないが、出来れば今すぐ部屋を出たい。
「剣術一筋だったから、女性としての身嗜みとかは恵さんみたいには行かないし、料理だとか家事もそうだけど、その、うまくないじゃない?」
 おや、と剣心は話の流れが予想と違うことに気付いた。予想なら剣心と一緒になれないというたぐいの言葉がもう少し続く筈だが、これではまるで。
「でも、剣心の帰りたいと思う場所にはなれると思うの」
「では、受け入れてくれると?」
 薫は恥じらいながら眉を寄せて、困ったように唸りながら、頷いた。
 この少女に呼び止められて、この家に帰ることを覚えた日に感じた、ほのかな胸のうちのあたたかさに火が灯ったように思う。それは体を支配して、言葉にならないほどの大きな喜びになる。どうすればよいのかなんて分からなくなって、思わず抱き寄せて、その耳元でありがとうと伝える。それ以外の言葉は出てこないし、抱きしめたところでこの幸福を彼女に伝えきれないであろうと分かっている。それでも、こんなに心が満たされた事を伝えないわけにはいかないのだ。
 薫もそんな剣心の背中に手を回した。こんなふうに抱きしめる事も、抱きしめられる事も期待せずに生きてきた。なんてあたたかいのだろう。
「これからも、ううん、ずっとよろしくね、剣心」
 ちょっと涙目の薫の頬に口付けて、剣心は「こちらこそ、よろしく頼むでござるよ」と返した。