勿忘草

 最近、こんな噂を耳にする。《昼飯時の頭領で虐殺人形と恐れられるアジアンが記憶喪失になった。》エルデンでは様々な情報が飛び交いやすい。そして、強者に関する噂は嘘も真も何でも広まる。特にアジアンのような奴の場合は、行動一つでも話題になりかねなかったりする。そんな有名人が記憶喪失になったと聞いて、街中のクソ野郎共が考えることなど、マリアローズにはこれっぽっちも分からないのだが、アジアンが記憶喪失になった途端、急激に奇襲して来る馬鹿が現れて増えた。らしい。あくまで噂だ。マリアローズはこの目で確かに見たわけではないから分からないが、現に、鉄鎖の憩い場以外でアジアンを襲う連中がいると半魚人カタリが言っていた。まあ、虐殺人形という物騒極まりない異名を持つアジアンなので負けはしないのだが、何故だか襲撃者を殺さないらしい。躊躇いもなく殺せる男なのにおかしいといえばおかしい。だが、誰も真相を知るものはいない。昼飯時のメンバーはアジアンを猫可愛がりしたくて堪らない、アジアンを甘やかす連中の集まりで、今回の記憶喪失はのんびり対処するつもりらしい。

 ここしばらく、あの変態鬼畜助平野郎がウザったい愛の囁きとやらをしなくなったので何かあったのかと思いきや、あの細身の癖にタフで強いアジアンは記憶喪失になっていた。マリアローズからしてみれば、両手を振って喜ぶべきかと思うのだが、何となく、あくまで何となく、変だなと思った。違和感が拭えない。あいつが記憶喪失。人形めいた(と言うとあいつは嫌がるのだが)顔の造りや、時々見せる虐殺人形としての冷たい殺気、人間らしい行動であるはずの食事が似合わない男。記憶喪失なんてものになるんだ。ふぅん。そんなふうに思った。マリアローズを知らないアジアンは当然の如く、ストーキングしないし、マリアローズがクソ野郎共に襲われても助けに来ない(その点は自分で解決するけれど)。愛を叫びにも来ない。静かな生活を手に入れることが出来たという訳なのだ。以前から、さようならを言わなければならないと思っていたから、ちょうどいいと思っていた。一巡月も経つと慣れた。アジアンがいないって凄い。SmCの時は何が何だか分からなくて戸惑ったけれど、今回は事情が分かっているから後ろめたさがない。寧ろ清々した。気が楽だ。

「そっれにしても、」半魚人がほぇ~と奇妙な溜め息をついた。「あのアジアンが記憶喪失っちゅうんは信じられへんわ」
「しょうねぇ」と愛らしく舌足らずな美少女のユリカが応えた。見た目年齢が十歳程度なのに、実は年齢が二十歳を越える、間違いなくマリアローズよりもお姉さんのユリカは医術士であり、また、鵺流古式戦闘術の使い手で最強伝説を持つ。はっきり言って凄いのだ。
「しょもしょも、何で記憶喪失になったのかしら?」
「それは……頭に……強い…衝撃を与えられて……という……わけでは……ないんですか……?」
 いかにも薄幸の美少女という感じの、魔術士のサフィニアが意見を出した。彼女は閃光の魔女マチルダの弟子でありながらも、あまりの凶星を背負って生まれてきた為にあの凄腕魔女にも匙を投げさせてしまうほどの不運の持ち主である。魔術の才能はマチルダの弟子だけあってぴか一だ。
「や、僕はどんな理由や事情があるにせよ、ウザったいストーカーがいなくなってくれて清々するけどね」
「そないなこと言って、自分ちょびっと寂しいんとちゃう? 本当はちょびぃぃぃいいいっと寂しいんとちゃう?」
「ううん、まぁぁぁあああったく寂しくない。っていうか何で僕が寂しがらなきゃいけないわけ? 理由がないでしょ、理由が。半魚人の考えることなんて人間の僕にはさっぱりちっともわかんないけど、その辺りははっきりさせとかなきゃ、のちのちきみが訳の分からないことを言い出すかもしれないからね。馬鹿にはちゃんと、僕があいつをどれだけ鬱陶しく思っていて、数え切れないほど死んじゃえって言ったか、教えとかないとね。さあ言え、僕が何で寂しがらなきゃいけないのか、その根拠を言え」
「ちょお待ちっ! その前に訂正せなあかん事があるっ! ワシは半魚人とちゃうっ! 立派な人間様じゃい……! そらな? ワシの目はほんのちょびっと、ほんまにほんまのちょびっと、離れとるかもしれんで? けど、ワシはそんなんも気にならんくらい漢やん? ワシの顔なんか無視できるっちゅうか、これくらい他人より劣っとらんとアンバランスなくらい漢やん?」
「へぇ、自分の顔が他人より劣ってるって自覚はあったんだ。魚の癖によく理解できたね? まぁ、さすがの半魚人でも身の程は弁えてるよね、っていうか弁えてなきゃおかしいし。魚は魚なんだから、無理して人語を喋る必要はないんだよ?」
「せやな、魚はパクパク口を動かすだけで会話なんかせぇへんもんな。そもそも魚は喋られへんのに何でワシ喋れんのやろ……ってちゃうがな! ワシは人間やっちゅうねん!」
「はいはい。結局カタリは半魚人で、人間じゃないってことはよく分かったっていうか前から知ってるから。今更だから。それよりもきみの勘違いの根拠を言えって僕が言ったの覚えてる? あっ、そっかあ、脳も魚並なんだから覚えられる訳がないよね、期待してごめんね? 期待した僕が間違いだったよ」
「ちゃうっちゅうねん!! ワシ人間!!」
「はいはいそーですか(棒読み)」
「自分……マリアローズ……めっちゃテンション下がんねんけど……ワシのボルテージだだ下がりやねんけど……」
「や、きみのテンションなんか知らないから。さっさと僕の質問に答えてくれる?」

 そんなこんなしていると、動物園事務所の扉が開いた。既に皆、事務所に集まっているはずなのに、何故――? トマトクンはぐうすか寝てるし、ピンパーネルも時々会話に参加していたから、間違いない。髭は今、ジェードリで奮闘中だし、いけ好かないジャン・ジャック・ド・ジョーカーと超絶美女のクローディアが現れるとは思わない。ならば、あのロム・フォウなのかな、と思って一斉にそちらに振り向いた。客人なんて珍し過ぎる。
「こんにちは。一件以来ですね」
 胡散臭い笑みと中肉中背の、特にこれといった特徴がない眼鏡を掛けた男がいた。
「えっ……と、ヨグ……?」
 駄目だ。無理。こいつのフルネームが思い出せない。マリアローズは頭を捻ったが、不可能だと思った。やったら長ったらしい名前だったという記憶はあるのに、覚えられなくて、ヨグとしか脳には刻まれていなかった。
「ヨグ・フローヨ・メイドルフ・サイケングレンマイセルヒですよ。まあ、僕のことは今は放っておいてくださって構いません。正直、中々名前が長くてきちんと覚えてもらえることが少ないというのは前々から知っていますからね」
「それよりも何の用なの?」
 ちょっとつんけんした感じになってしまったが、マリアローズはヨグに訊ねた。昼飯時のメンバーで何となく異質だと感じる奇妙な奴だ。ついでに、マリアローズのストーカーであるアジアンすら気付かないくらい尾行が得意な奇天烈野郎だ。
「えぇ、そうですね、用件は――」と、そこでヨグは言葉を切って、後ろを振り返った。手招きしている。誰かを連れてきたのか。誰だろう、なんてことは考えなかった。あいつ以外にZOOに用事がある昼飯時の人間がいるはずがない。ベティはサフィニアと顔見知りというか、同じ師を持つ魔術士だが、彼女はマリアローズを嫌っている。そこまでいかないとしても、好かれているはずがない。サフィニアに会うなら、第十区で会うだろうし。他の昼飯時のメンバーは殆ど面識がないと言っても過言ではない。だから、消去法であいつしかいない。
「アジアン、こちらです。この方がマリアローズです。あなたの記憶を取り戻す鍵になるであろう人物ですよ」
「あ……」
 恐る恐る、というふうに出て来たあいつはまるで図体ばかりでかい赤ん坊みたいに、無防備で無邪気で純粋で、何と言うか、頼りなげだった。いつもあいつは自信満々というか、気障で変態で頭がおかしいんじゃないのって感じなのに、今のあいつは違う。何かに怯えているように見える。小動物のように警戒ばかりしている。別に威嚇している感じじゃない。だけど、ぴりぴりしていた。
「はじめまして……というか、キミとボクは面識があるらしいんだけど、その、ボクは、」
 初対面の人間に対して凄く気を使っているアジアンというのは滑稽というか見慣れていなかったから、凄くもやもやした。
「記憶をなくしているらしくて、ネ。昼飯時の皆も記憶を取り戻すのにかなり協力してくれたんだけど、戻らなくて……頼みの綱は、えっと……マリアローズ、でよかったのかな、キミしかいないとサイケングレンマイセルヒが」
「アジアン、いつも通り、ヨグで結構ですよ」
「そう」
アジアンは少し辛そうな顔をした。「すまないネ」
「いえいえ、お気になさらず」
 ヨグはやはり胡散臭い笑顔をアジアンに向けた。アジアンはほっとしたような表情になった。

 アジアンが、あからさまに誰かの顔色をうかがって安堵するなんて、そんな様子を見る日が来るなんて。変なの。なんか、あれ、ちょっと呼吸がしづらい気がする。胸が詰まったような。いいや、気の所為だ。うん、そうだ。
「噂で聞いているかもしれませんが、この通り、アジアンは記憶喪失になってしまいまして。それなりに努力したのですが、一向に効果が現れなかったのです。一体どういう原因でこの状態になってしまったのか、さっぱり分かりません。解決法が見付からなくて」
「しょれで、どうしてここに?」
ユリカが愛らしく訊ねた。
「アジアンはマリアローズさんに熱烈にアタックしているのは知っていましたから、会わせてみたら、何かしら思い出せるのではないかと提案してみまして。昼飯時内では僕とベティしかZOOと面識がありませんが、ベティは忙しいと言うので、僕が彼を連れて来ました次第です」
「で? 全くアジアンは思い出せないみたいだけど?」
「おや、万策尽きてしまいましたね」
 のほほんとのたまいやがったヨグは眼鏡のブリッジを右手の人差し指で押した。やっぱり笑顔だ。
なんでこんな平気そうというか面白そうな顔で話せるのだろうか。自分のクランの頭領が記憶喪失なのに。
「さて、どうしましょうか」
「どうしましょうか、じゃないでしょ! どうにかしなよ! 自分とこの頭領の事だろ!?」
 マリアローズが怒鳴る必要があったのか、分からないが、この無頓着さにちょっとムカついてしまった。
「あ、あの……」
 アジアンが怖ず怖ず声を出した。駄目だ。違和感ありまくり。寧ろ殊勝な様でいることが凄く怖い。いや、記憶喪失でいろいろと不安になっているっぽいアジアンにそんな事を言うのは酷いかもしれないが、それでもアジアンが控えめな態度でいるのはちょっと慣れない。
「ボクが皆に迷惑を掛けてしまって、すまない。思い出せそうになるんだけど、その度に、ふっと遠くなって、掴めなくなる。正直、誰かと会ったりして思い出せるとは思っていなかったんだ。ただ、マリアローズさん、キミの名前をヨグが言った時の皆の態度が気になって。ヨグ曰くボクとキミは特別な関係だと」
 アジアンが物凄く申し訳なさそうな顔でマリアローズに向き合った。こいつ、謝ろうとしているんだ。アジアンにとっては見知らぬ人間に手間を取らせてしまったこと、そのうえ、マリアローズがヨグに怒鳴り付けたからだ。
「だから、会おうと思ったんだけど、やっぱり思い出せない。本当に、すまない。キミにこれ以上迷惑は掛けないヨ」
「き、きみは謝らなくていいよ。仕方ないだろ、記憶喪失なんだから」
「そう……だね」
 そんな寂しそうな顔をしないでほしい。きみが悪い訳じゃないんだろ。だって、原因不明なんだから。マリアローズは、ふと、セブンス・ゲイムの時の事を思い出した。昼飯時の仲間が連れ去られた時のこいつの表情を、マリアローズは忘れられない。ほっておくなんて出来なかった。アジアンの心が今にも崩れてしまいそうだというのに、他人の振りなんか出来なかった。その時と似た気持ちになった。ほっておけない。こんなに不安に揺れているアジアンを見捨てることが出来る訳がない。

「……きみは記憶、取り戻したいんだよね?」
 マリアローズはアジアンに訊ねた。ついつい上目遣いになってしまっていたのか、アジアンが頬を少し赤らめた。
「うん。皆に迷惑をこれ以上掛けたくないし――」
「迷惑云々よりも、きみ自身がどう考えているかっていうことを訊いてるんだけど?」
「ボク自身……?」
「きみが仲間のためだけに記憶を戻したいって気持ちも分からなくはないけどさ、今のきみは既に諦めちゃってるでしょ。これ以上誰にも迷惑を掛けたくないって、そう考えてるから。それしか考えてないから。自分が諦めたら、皆諦めてくれるって考えたの? 馬鹿でしょ。一巡月くらい、記憶ないまま一緒にいたんだろ、昼飯時の皆と。きみさ、何を感じたの? 申し訳なさだけ? 皆、きみが好きで好きで好きすぎなんですオーラ出してたでしょ。きみの事だけ考えて行動してる訳じゃないと思うよ。勿論、きみに記憶が戻ってほしいんだろうけどさ、きみが今にも泣きそうな顔で右往左往してるから。けど、自分達の知ってるアジアンに戻ってきてほしいって、そう思ってるだけだよ。だから、皆、ゆっくり思い出せばいいとかなんとか言ってたんじゃない? 昼飯時ってアジアンを甘やかしすぎだから。だから、きみが諦めたら確かに皆そっかとか言って受け入れちゃうんだろうけど、僕はそんなの認めないし。きみにどれだけいろんな事されてきたと思う? 想像も付かないでしょ? 一度は公衆の面前で剥かれかけたし、セクハラなんかしょっちゅうだし、薔薇は毎回会えば必ず渡すし、訳の分からない告白は必須だし」
「あ、マリアローズ……さん? 何を」
「要するに! きみが全くやる気なさそうだから腹が立ってるんだよ! 仲間に甘えすぎ。いい大人なんだからもっとしゃっきりしなよ! きみがちゃんとしなきゃいけないって、ここまで言わなきゃ分からない!?」
 あーもーこんなにうじうじしたアジアンって凄く気持ち悪い。マリアローズは声を荒げてしまった。だけどさ、こんなに自分の事に対して消極的だと苛々しない!? 僕だって人の事をとやかく言える立場じゃないのなんか、充分知ってるけど! 駄目だ、こんなに変なアジアンは嫌だ。そう感じる。それは確かだ。

 だけど、頼りなくうなだれている様子を見ていると、胸がちょっと苦しい。痛いというか、なんか、そう、支えてあげなくっちゃ、って気になる。ぼろぼろで今にも倒れて崩れてしまいそうになっている癖に、周りの事ばっかり気にしているアジアンは馬鹿で、どうしようもない。そのくせ、警戒心はバッチリとかどういう奴だよ。めちゃくちゃじゃないか。
「言っておくけど、僕はお人よしじゃないし、善人じゃないし、偽善者でもないし、きみを甘やかす気なんてこれっぽっちもないから。はっきり言うよ、きみは一体どうしたいの? きみがちゃんと自分の事を決めなきゃ。今のきみに自覚はなくても、昼飯時の頭領なんだし。きみが考えなきゃ。他人に任せるべき事柄じゃないだろ。きみは一体、どうしたいの?」
 マリアローズはじっとアジアンの薄青色の目を見た。今更ながらに綺麗な目だと思った。
「ボク、は……目が覚めた時、ぽっかりと穴が空いたような気がして……怖かった……」
「それは記憶を失った時?」
「そうなるのかな……記憶を失ったって自分では思えてないから。ただ、周りが全て恐怖に感じられて。昼飯時の皆は臆病で右も左も分からないボクによくしてくれた……記憶を失う前からの知り合いだからだとは思うけどネ。それでも親切にしてくれて嬉しかったんだヨ」
「うん」
「だから、皆のためにも思い出したい」
「うん」
 なんかすっきりした。マリアローズの都合で怒鳴られたヨグとアジアンも何となく先程よりも表情が固くなくなった気がする。そもそも、マリアローズはアジアンがこんなにも意気消沈してちょっと投げやりで自分の事を諦めてしまっているのを初めて見て、いささか動揺していたのだと思う。つい、いつもの調子で説教たれてしまった。
「そう、そんなふうに考えなきゃね。物事は前向きにとらえるんだよ」
 少なくとも、アジアンにとっては初対面のはずであるというのに、ごちゃごちゃ言い放ったマリアローズの心臓は少しばかり鼓動が早い気がする。
「ありがとう、マリアローズさん」
 寂しげでどこか儚さを漂わせるアジアンの笑みを見たら、顔が真っ赤になってしまって、すぐに考えることを忘れてしまいそうになった。

 とりあえず、アジアンに「マリアローズさん」と呼ぶのはやめてもらうことにし(その時、アジアン以外の皆に生暖かい目で見られたのはきっとマリアローズの勘違いだと思いたい)、これからどうするつもりなのかを訊ねると、驚くべき回答が返ってきた。
「実は、アジアンには帰るところがありません」
「はあ!?」
 どういう事なんだ、と目をみはった。ヨグはにこりとして、眼鏡を右手の人差し指で押した。
「アジアンは常に一人で行動していて、ついでに家を持っていません。隠れ家はあるみたいですが」
「きみはどうせ知ってるんだろ?」
 どういう訳か、アジアンを全く気付かれずに尾行できるヨグなんちゃらかんちゃらは、マリアローズの家の場所まで知っている。セブンス・ゲイムの時に明らかになった事実により、マリアローズは現在、トマトクンの家に引っ越す準備さえしている。ヨグはきっとアジアンの隠れ家とやらの場所を知っているだろう。一巡月の間、道端で生活していた訳でもないみたいだし。
「それはお答えしかねますが」
 何か面白いものを見つけたかのような笑みだった。ていうか答えられないってどういうことだよ。
「どうせなら、アジアン、マリアローズさんと共に時間を過ごしてみてはいかがです? 例えば同居とか」
「え」「はいっ!?」
 アジアンはきょとんとしているが、マリアローズは勿論訳が分からないしヨグの態度が気に入らないしで苛々していた。そのうえ、何その発言。意味がわかんないにも程があるんだけど……? ZOOのメンバーに至っては、話に口を挟む気がないみたいでとりあえず見守るか、という態勢だ。園長はかなり熟睡しているが。
「よくあるでしょう、何らかのきっかけで思い出せるって。頭領はマリアローズさんに激しい愛情を注いでいましたから、或は、と思いましてね。嫌でしたか?」
「嫌とか嫌じゃないとかそんな問題じゃないし! だいたい、アジアンだって嫌なんじゃないの? 今のこいつにとって、僕は初対面の人間なんだよ!? ていうか、アジアンも何か言ったら? だんまりしてないで主張しなよ」
 マリアローズは再びアジアンを見る、というよりねめつけた。アジアンは戸惑うようにこちらを見つめ返したが、嘆息して、口を開いた。
「ボクは記憶を取り戻したい。そのためには、マリア、キミの助けが必要なんだと思う」
 嘘だろ、とマリアローズはぽかんとした。え、マジ? いやいや、どう考えたらそうなるわけ。ありえないし。そんな考えをする要因なんてある? ないでしょ? 何を言い出してんだ、こいつ。
「キミに、いや、キミと時間を共有したら、何か思い出せるかもしれない。お願いだ、マリア。しばらくの間でいいから、ボクを隣においてくれないかな?」
 嘘でしょ? いや、マジ? え?
 パニックに陥っているマリアローズに追い討ちをかけるように、我らが動物園園長が口を開いた。
「事情が事情だしな。預かってやれ、マリア。さすがに放っておけんだろう」
 ちょ、何言ってくれてんだよ寝ぼすけ園長。ていうか、いつから起きてたわけ。

 結局、マリアローズはアジアンの身柄を預かることになった。あのアクセスの悪すぎる第十三区の家で一緒に過ごすこととなってしまったなんて。ありえない。
 クランZOOは、秩序の番人とは違う意味でお人よし集団であることは、加盟する前から知っていたし、加盟してからもひしひしと感じていた。だから、記憶がなく、不安でいっぱいいっぱいなアジアンを見て、カタリは熱く仁義とか人情について語り始めたし、ユリカとサフィニアも遠慮がちの癖にちょっと強引な説得を始めた。ピンパーネルだけは何も言ってこなかったが、柔らかく生暖かい笑みでマリアローズを見ていた。だいたい、ZOOの一番のお人よしである園長はどんな縁でも大切に思っているみたいで、結構面倒見がよい。トマトクンはアジアンと悪縁しかないように思われるのだが、そういえば、アジアンが一方的にトマトクンを嫌っているだけで、トマトクンはさほどアジアンを敵視していない。だから、アジアンが記憶喪失になってちょっと同情したらしい。別に面倒を見るくらい平気だろ、と寝ぼけ眼で言われても説得力ないけどね。かなり眠かったらしく、途中からうつらうつらし始めて、最後のほうは船を漕いでたけどね。ていうかまた寝はじめたよ……。
「アジアンの着替えは僕が用意しましょう。まあ、最低限の事はこちらがしなくてはねえ。それに、マリアローズさんもやりにくいでしょうし」
 ヨグがそんな事を言った時、何の事だかさっぱり分からなかったのだが、次の瞬間に気付いて頬が噴火したんじゃないかと疑うくらい熱くなった。そうだ、着替え。アジアンだって人間なんだし、当然、風呂にも入るし着替えだってする。棘闇の衣装だって、毎日一緒じゃない。常に漆黒だが、デザインが変わっているのはマリアローズだって分かっている。それに、肌着だって着てるはずだ。裸の上から肌着を着ずに服を着るような趣味を持っていなければ、の話だが。うっかりそんな事を忘れていた自身にマリアローズはびっくりした。当然の事なのに。あまりにもアジアンが人間離れした戦い方をしようが、アルカーディアやらジャシュギシュやらタナトゥスやらヤヌゥやらよく分からないものを飼っていようが、アジアンだって清潔を保つためにシャワーを浴びたりするはずなのに、何で忘れてたんだろ。ていうか、忘れてたというよりも、想像が付かないと言う方があってるかもしれない。
「あ、え、あ、うん! それはきみに頼むよ! うん! よろしくね!」
 ヨグは眼鏡を右手の人差し指で押し上げた。笑っている。
「その赤い顔のままだと変なのがついて来ますから、気をつけた方がいいですよ」
 思わず、マリアローズは「余計どころか無駄なお節介どうも」と鋭く冷たい声で返答した。

 マリアローズの知っているアジアンと言えば、変態で鬼畜で助平で馬鹿で阿呆でやったらめったら強くて、その容姿とか性格とか戦闘能力とか全てひっくるめてまともじゃない奴という程度だ。セブンス・ゲイムのお陰で他の情報もたまたま手に入れてしまったが、正直、これ以上馬鹿の事を知りたいとは思っていなかった。いや、クラニィという人の事は聞いてよかった――とは言えないものの、知らないよりマシだとは思う。ベティの目が静かに強烈に語りかけてきたのは当然だ。マリアローズは知らなければならなかった。アジアンがマリアローズの為に何をして何を失ったか。何を考え、何を感じたか。知らなければならなかった。そして、クラニィという人とローガンという人を失って辛そうなアジアンを知った。アジアンにとって二人はとても特別な存在だった。失うことを信じたくなかった。そんな人達だったのだろう。
マリアローズも気持ちが分からない訳ではない。寧ろ、共感を覚える。ジェードリでカタリが死んだ時の辛さも苦しみも無力感も忘れられない。忘れてはいけない。今は元気で寧ろウザったいときもあるが、大事な仲間だ。死んでほしいなんて思ったことがない。カタリが蘇生された時の安堵と幸せをマリアローズは忘れたりはしない。だから、二人も仲間をなくしてしまったアジアンの表情の意味を痛いくらい感じた。
 知れば知るほどアジアンが近くなっていく。いや、それでもまだ遠い気がするが、それでも距離が縮まる。正直、怖い。ZOOの皆はマリアローズと仲間でいてくれる。優しくて楽しくて頼りがいがあって一緒にいれば幸せを分け合える関係だ。アジアンは違う。アジアンは仲間じゃない。形式的とはいえ、敵対したこともある。これからもどんなふうになるか分からない。しかも、アジアンは超最低SUCKな事に、マリアローズに気色悪い愛とやらを捧げている。それを理由にいつも会いに来るし、悪漢からマリアローズを守ったりするし、声高に告白を始める。正直、鬱陶しい。けど、アジアンを憎んだり、嫌いにはなれない。アジアンに敵わないと知っていても、剣を向けたくない。アジアンを傷付けることなんて出来やしないと知りつつも、傷つけたくなんかない。
それどころか、この関係に名前を付けようとさえしている。ストーカーと被害者、ではなく、友達という名を。馬鹿馬鹿しいと思う。マリアローズは所詮アジアンの想いに答えることなんて無理なのだから、期待させるような曖昧な態度はとってはいけないのに、どうしてだろう、アジアンが遠くに行くのが嫌だ。ベティと並んで歩いていたアジアンを見ていたら、苦しかった。認めたくはない。けど、マリアローズはアジアンの存在を無視できなくなっている。しょうがないじゃないか。あんなにもアプローチされて、無視できる訳じゃないし、そもそも無視されてもアジアンは永遠にマリアローズだけに愛を囁くのだろうと思うと、不思議な気持ちになる。何でなの? 辛くないわけ? 僕にそんな価値があるとでも? 分からない。アジアンをマリアローズは知らない。結構長い付き合いになるのに。何も知らない。しかも、今のアジアンは記憶がない。もう、どうすればいいのか分からない。いつものように素っ気なく扱うのは駄目だろう。駄目な気がする。だってアジアンはマリアローズが毒舌なのを知らない。だけど、優しくするなんて、そんなの出来そうにもない。それには抵抗感がある。
 僕はどうすればいいわけ……?

 何やかんやで、とりあえず、生活必需品を買い揃え(代金はヨグが全て支払ってくれた)、面倒臭い階段を駆け上がり、マリアローズは帰宅した。当然、アジアンもマリアローズに付いて来ているし、荷物持ちのピンパーネルも一緒だ。マリアローズだけでは決して荷物を運べそうにないというのは全員一致の意見であった。今のアジアンに持たせるのも心許ないので、消去法で考えて、ピンパーネルに手伝って貰うことにしたのである。ユリカとサフィニアにさせる訳にはいかないし、半魚人は間違って落ちてもらったら困るし煩いし、トマトクンは爆睡しており、ヨグに荷物持ってもらうのは(いろんな意味で)無理だな、と判断したが故である。
 玄関前に着くと、マリアローズの息が少しだけ荒いのに対し、アジアンとピンパーネルは全く階段が苦ではなかったらしく涼しい顔をしていたので、ちょっとだけムカついた。アジアンは、まあ、変態だし、ちょっと変わった肉体だし、タフだから仕方がない。ピンパーネルも元アッサシンなので、体力はマリアローズと比べものにならないくらいあるに決まってる。二人はマリアローズみたいな凡人ではないのだ。そんなふうに折り合いをつけた。マリアローズには二刀で解体することも、壁を駆け上がる驚異的な身体能力も持てないのだから。
「ピンパーネル、わざわざありがとう。助かったよ」
 息を整えてから、謝礼すると「いいエ、大丈夫・デス」と柔らかい笑みで返してくれた。最近のピンパーネルは、マリアローズの数少ない癒しの存在である。共通語も前より上手くなってるし、語彙も増えた。お陰で二人きりでも前のような気まずさはない。嬉しいかぎりだ。
「アジアン、きみもお礼を言いなよ。きみの荷物を運んでくれたんだから」
 ぼけっと突っ立っているアジアンを見ると、少しだけ、不愉快だと主張するかのように眉をひそめている。あれ? と思ったけど、すぐにアジアンは目を細めてありがとうと言った。
 夜遅い時間帯などではなかったし、そもそもピンパーネルがエルデンの底辺をさ迷っているクソ野郎共に負けるはずもないっていうか襲われることもないっていうか、まず、ピンパーネルが常人に気取られるはずもないから、心配はしていないが、「気をつけてね」と送り出し、荷物を部屋に運んだ。アジアンも当然手伝った。
 ビュウビュウと吹きすさぶ屋外から屋内に移動するとなんだか落ち着いた。マリアローズはEMU印の半永久灯の紐を手探りで探し、引っ張った。すぐに部屋は明るくなった。マリアローズは家の中では靴を脱ぐ習慣がある。勿論、アジアンにも事前に説明してあるので、アジアンも靴を脱いだ。きょろきょろと物珍しそうに部屋を見ているアジアンをほっぽいて、部屋の奥の収納ボックスから予備の毛布を引っ張り出した。今日はもうマリアローズが疲れたし、家に入った途端眠気が襲い掛かってきたし、家の中の事なんてアジアンに今説明する必要などないと判断したのだ。さっさと寝よう。幸い、記憶のないアジアンの行動はいたって普通だった。変態じみた言動は一切なかった。マリアローズがダメだと言えば、きっと風呂を覗いてきたりはしないだろう、と思う。思いたい。
「あー……アジアン? 僕、お風呂に入るけど、絶対覗かないでよ」
「大丈夫だヨ、マリア。婦女子の入浴を覗くなんて事はしないサ」
 ぷちんと何かが切れる音がした。久々だ。
「アジアン……」
「なんだい、マリア?」
 アジアンが訝しげにマリアローズを見た。
「言わなきゃいけないことがあったよ」
「ン? 何かな?」
「僕は女じゃない!!」
 えっ、という声を漏らしたアジアンがあんまりにも情けない表情だったので、マリアローズは更に腹を立てた。
「絶対覗くなよ、馬鹿!!」
 今のアジアンは記憶喪失なんだから、いつものような態度はダメかもしんないなんていう数時間前の気遣いはすっかり頭から消え去っていた。

 記憶をなくしているアジアンは、やけに従順で柔順だ。しかも好奇心旺盛らしい。その癖、人見知りをする。まるで子供のようだ。最低限の常識はあるみたいなので、躾をする必要がないのがラッキーだった。ZOOのメンバーでも、お姉さん気質のユリカと鬱陶しい半魚人とはすぐに――とは言えないけれど、まあ、打ち解けた、というか、慣れたらしく挨拶くらいはする。サフィニアとは仲良く出来るかどうかというより、話し掛けにくいとアジアンがこっそり言っていた。何を喋ればいいのか皆目見当がつかない、だって魔術士だからと言うので、昼飯時にもベティという凄腕魔導士がいるじゃないかと指摘したら、「子供は嫌い」と言われたらしい。会話すら成り立たなかったのだろうか。アジアンは「彼女に逆らうなんて無茶だと思ったから、話し掛けるのはやめておいたのサ。それに、胸元について尋ねたら危うく殺されかけたんだヨ」とちょっぴり青ざめて話した。それを聞いて、そうか、記憶がない所為で、無謀なガキンチョに成り下がったのか、と思うくらいだった。どっちにしろ、魔術士は今のアジアンにとって、どうやら鬼門らしいというのは分かった。
 半魚人について尋ねると、「頷いているだけで会話になっているみたいだ」と不思議そうに首を傾げた。つまり、カタリ――いや、半魚人の独り相撲なのか。気になったので、トマトクンとは話したの? と言ってみた。記憶があった以前、アジアンはトマトクンを毛嫌いしていた。まあ、それは一方的にだったが。理由は、昼間からアジアンがマリアローズに不届きな行為を及ぼそうとしたのをトマトクンが止めたからだと思っていたので、記憶のない今はどうなんだろうと、ふと疑問に思ったのだ。アジアンは端正な顔を顰めて、「ボクはあの男が嫌いだネ。近寄りたくないヨ」の一点張りだった。本能で嫌っているのだろうか。それとも、記憶が戻りかけているのかもしれないと思った。ピンパーネルに対してもあまり愛想がよくないように見えたので、理由を訊ねたが、こちらの返答はイマイチだった。自分でも分かってないらしい。
 とにもかくにも、アジアンはマリアローズ以外のZOOには懐きそうにもないというのがZOOの意見だった。それに、マリアローズはストーキングされていたので、結構(もしくは、認めたくないし、認めないが、しょっちゅう)顔をあわせていたが、それはたいていマリアローズが一人の時だった。誰か一人でもZOOの人間がいれば、アジアンは姿を見せない。なので、アジアンにストーキングされているマリアローズと徹底的に一方的に嫌われているトマトクンを除くZOOの連中はあまりアジアンと話したことがないのである。というか、アジアンの眼中になさそうだった。お陰で顔を合わす度に何とも言えない雰囲気になるので、マリアローズとしては善処しなければならないのが面倒だった。
 聞いてみたところ、カタリやユリカ、サフィニアのアジアンのイメージは、虐殺人形カーネイジドールの名に相応しい実力者でありながらマリアローズのストーカーで報われない男という感じらしい。
「そらな? まあ、ワシは泣き叫ぶ短剣スクリーミングダガーを見せてくれへんか言うてちょっと付き纏っとったけどなあ、ユリカやサフィニアなんか、間近で顔を合わす機会なんてなかったやん? あん時は――」カタリがちょっとだけ苦い顔をした。魚の癖に表情豊かなのが特徴で、それはカタリの素直過ぎて嘘が付けない性格を如実にあらわしている。あん時。セブンス・ゲイムの時の事を指しているのだろう。
「――そんな悠長なこと言ってられへんかったし? 今もちょっとなあ、違和感バチバチでアリアリやで。ほんまに。ワシ、とりあえず黙っとったら気まずいんとちゃうかって思たから、話し掛けとるけど、なあ? ……なあんかなあ、実感湧かへんわ」
「しょうなのよねぇ」
 ユリカが腐れ魚に続いて言った。
「アジアンしゃんって、マリアに対して凄くス(シュ)トレートしゅぎる行動とか、言動の多い人っていうイメージがあるから、前からどんなふうにお友達になれるのかしら、って思ってたんだけど――」
「えっ? ユリカ、何言ってんの? 僕の聞き間違いかな? アジアンと――何?」
「だって、マリアを何度もピンチから救ってくれてるんでしょう? 下心が見え見えとは言え、やっぱり挨拶のひとちゅやふたちゅはしなくちゃ」
「だからってアジアンとユリカが友達になる必要がどこにあるの!? ないから!! ユリカがあんな変態鬼畜凶悪助平外道野郎と仲良くする必要ないからね!?」
「あら、今のアジアンしゃんは変態鬼畜凶悪助平外道野郎なのかしら?」
 まさか、ユリカがそんな切り返しをするとは思っていなかったので、マリアローズは狼狽した。
「えっ……あーまあ……今は違うけどさ、違うじゃない? こう、前提にすべきものが。今のアジアンには記憶がないんだし?」
「まあ、しょういうことにしてあげるわ」
 その時のユリカの含み笑いは、外見年齢に相応しいようには思えないほど、お母さんみたいな優しい笑みだった。
 けどさ、なんでユリカはそんな笑い方するわけ? カタリも魚にそっくりで目が離れ気味の顔をニヤニヤさせてるし、サフィニアも温かい笑顔でマリアローズを見ていた。段々、頬に熱が溜まっていくような気がした。なんで僕が恥じらわなきゃいけないの。超最低(SUCK)。

 ちょっとだけ、ZOOの皆と喋ったあと、マリアローズは動物園事務所を出て、銀行の外に向かった。出入口のすぐそばでアジアンがいかにも手持ち無沙汰というふうに突っ立っているはずだからだ。
 アジアンはどうしてか分からないが、いつの間にか、動物園事務所に足を踏み入れるとそわそわして落ち着かなくなるようになっていた。本人も明確な理由が分かっていないそうだが、トマトクンや、ピンパーネル、ユリカといった強者の気配を常に感じながら、鬼門の魔術士であり不幸そうなオーラ(最近薄れてきている)を醸し出しているサフィニアを視界に入れて、鬱陶しい魚男と会話しなければならないのだから、確かにあそこは落ち着かないかもしれないな、とは思う。マリアローズは慣れきったが、アジアンには無理なのかもしれない。まあ、無理矢理慣れる必要もないので、アジアンには外で大人しく待っているように、と言うと、まるで主人の命令に忠実な犬のようにじっと動かないでいるので、マリアローズは渋々動物園事務所の滞在時間を減らしてアジアンに付き合うことになってしまった。
虐殺人形(カ-ネイジド-ル)と悪名高いアジアンが大衆の目に曝されているのだから、昼飯時を敵視している秩序の番人がアジアンを見つけたらややこしい事態に成り兼ねないし、血気盛んなクソ野郎モウフォにでも喧嘩を吹っ掛けられたら、どうなるか分かったもんじゃないし、アジアンを一人残して仲間とワイワイ楽しくすることも躊躇われたので、結局、マリアローズはアジアンを選んだのである。
 アジアンを預かって共に過ごすようになって半巡月が経つ。その間に分かったことといえば、アジアンが再びマリアローズに一目惚れしたこと(これには本気で呆れたし、うんざりした)と、アジアンがちょっぴり変態なのと(程度が以前よりマシなのは記憶がない所為だと思われる)、エルデン内――特に鉄鎖の憩い場をうろついていれば、必ず一人は昼飯時の誰かと会うことくらいだ。会う度にアジアンが「やあ」と挨拶するので分かったのだ。相手の方の反応といえば、まさに人それぞれで、ある医術士服(?)を着た肉感的な女性はあからさまにマリアローズを見て眉をひそめたりした。幾人かはやはりマリアローズを見て複雑そうな顔をするが、大抵は礼儀正しく挨拶してくれた。
 昼飯時は、ベティ曰く「あぶれ者の集まり」だそうで、基本的にクラン全員で行動することがないらしい。クラン内でも仲の悪い奴らもいるし、高利貸やらゲイバーの店長やらもいたりするので、アンダーグラウンドに潜ったりするのは限られた戦闘力のある者達だけだとアジアンは語った。
「殺人鬼もいれば、変な奴もいるし、一般人もいるのが昼飯時の変わっているところなんだけど、ボクはそれが昼飯時の良さだと思うヨ」
 アジアンはその時、少しだけ寂しそうな顔をした。気のいい仲間達との思い出を早く取り戻したいと焦っているように見えた。
 マリアローズとしては、今のアジアンが以前のアジアンと違ってあんまり変態な行動や思わず脳の検査をした方がいいんじゃない? と言いたくなるような発言がないのは大変喜ばしいことなのだが、しかしながら、不思議な事に違和感ありまくりで気持ち悪くて堪らないというのも事実なのである。アジアンが気色悪い愛とやらを語っていないのがこんなにも変だと感じるなんて、マリアローズも感覚が狂ってしまっているらしい。残念ながら、変態じゃないアジアンに慣れない。
 マリアローズはアジアンの記憶を取り戻したいと強く願っているわけではないが、それでもやっぱりアジアンが自身の事や過去を覚えていないことで不安がっているのは見るに堪えないようだ。ていうか人として親切にしてやるのが道理ってものじゃない? 僕だって優しい人じゃないし、いい人でもないけどさ、知り合い――というにはかなり違和感があるけど、それ以外ほかに呼びようがないから一応知り合いってことにしとくけど、まあ、顔見知りが困っていて、そいつがそんなに大して憎くなかったら、手助けしてやるのが、嫌ってわけじゃないし。やぶさかではないってやつだ。うん。

 マリアローズとアジアンはとりあえず、この半巡月の間、こんな言い方は絶対に適切ではないしマリアローズは決して好き好んでこんな表現をしたい訳ではないし断じて認めたりはしないが、二人でいた場所や思い出のある場所を回った。初めて会ったD5出入口や、アジアンがマリアローズに一目惚れしたと言ったD13上層テトルアープ、SmCに辱められそうになったD7や、ヘッポコ似非肉弾系少女魔術士に多大なる被害を受けたメリクル迷宮の中など、マリアローズにしてみれば嫌な思い出ばかり付き纏う場所ばかりであるが、確かにアジアンが昼飯時の頭領としてではなく、完全無欠にはた迷惑で個人的過ぎてしかも下らなすぎる理由で単独行動をしていたのも、そういう場所なのだ。
 きっと、普段は高いビルの上からマリアローズを尾行していただろうからそういう場所にも行けたらいいのだが、如何せん、そこまでマリアローズのやる気は出なかった。というか、そんなの無理だ。ただでさえ、ZOOの皆と、ここ半巡月は一緒に行動できていない。収入がないのだ。アンダーグラウンドに潜って稼がねばならないマリアローズにしてみれば、どうやって食いつなげろっていうんだ、という気分だ。幸い、アジアンは大食漢ではなかったので、食費はちょこっと増えただけだが、何分、侵入者のマリアローズの収入源はアンダーグラウンドで異界生物共からぶん取った戦利品である。通帳を見るのが憂鬱だ。
 マリアローズに世話になりまくってるアジアンは、時々自分の通帳から金を引き落としてマリアローズに渡そうとするが、それはそれでちょっと癪だった。妙な意地だとは思うのだが、施しを受けたい訳じゃない。記憶があった以前は頻繁に奢らせていた癖にこんなことを思うのは矛盾しているし、何だかめちゃくちゃだが、マリアローズはアジアンから金をせしめるためにアジアンの記憶を取り戻すことに渋々どころか凄く嫌そうな顔をしながらも引き受けた訳ではないのだ。理由は、そう、知り合いが困っているなら助けてやるのが道理だからだ。そうだ。だから、マリアローズはアジアンから金を受け取らなかった。
 いや、本当は違うのかもしれない。マリアローズ自身も薄々気付きかけていて、敢えて無視している。無視しておきたい。だから無視だ。アジアンらしくない行動に酷くびっくりして衝撃を受けて混乱して胸が締め付けられたような苦しみが襲ってきて、いつのまにか、本当に無意識のうちに、アジアンにお金を突き返していたなんて。どうしてだろう。何故マリアローズはアジアンから受け取りたくなかったのだろう。大好きなお金なのに。いや、駄目だ。出来ない。まるでマリアローズがアジアンにせびったみたいじゃないか。違う、アジアンはマリアローズが通帳を見る度に顔を顰めるのを知って、申し訳なくなって、一番手っ取り早く形に出来て実用的でありまくりでも全然気にしないどころか嬉しくなるお金をマリアローズに渡しただけなのだ。記憶もないから、他にマリアローズの喜びそうなことを知らないのだ。マリアローズとの過去など、すっかり頭から消え去っているのだ。そんなの、知ってたはずなのに。わかっていたのに。どうして今更? 目がちょっと熱くなった気がした。そんな訳がないとぱしぱしと瞬きした。うん。気のせいだ。

「マリア、随分歩いたし、少し休まないかい? 鉄鎖の憩い場も近いことだし」
 アジアンが優しげに微笑んでマリアローズに訊ねる。アジアンはまだまだ絶対歩ける癖に、体力がなくて貧相でまるで女の子みたいなマリアローズを気遣ってくれる。理由は二つ。マリアローズに世話になっているから。マリアローズに気色悪い感情を抱いているから。ばっかじゃないの。
「平気だよ、大丈夫」
「そう」
 意識すると分かるのだが、アジアンの声は凄く美しい楽器の奏でる音楽のように他人を魅了するものがあるのに、何処か寒々しさがある。マリアローズに話し掛けるときは感情をたぁっぷり込めているというより、詰め込んで叫んでいるので知らなかった。マリアローズはアジアンのほんの一部しか知らないのだ。構わないけどさ。けど、きみのことを大して知らなくて、ただきみにアプローチされていただけの僕がどうしてこんなことをしてるんだろ。今更過ぎる。ヨグがアジアンにマリアローズの存在を教え、トマトクンを始めとしたお人よし集団ZOOがマリアローズを説き伏せたからだ。けど、本気で嫌だと言えば誰もマリアローズに強要したりはしなかっただろうに。いや、考えない。考えちゃいけない。考えて答えにたどり着いたらきっと僕は後悔する。その時こそ、本当にきみを拒んでしまう。そしたら、きみは必ず傷付いた目をしながら僕から離れていくだろう。僕はきみのそんな様子を見たら更に後悔するに違いない。だから、これを確かなものにしちゃいけないんだ。

 結局その日も収穫がないまま、帰宅することになった。一応、事務所に立ち寄って挨拶だけしておいた。カタリが調子はどうや、と訊くから、首を振った。それだけで分かってくれた。分からなきゃやっぱり半魚人だって証明してやれたのに、なんてことは考えなかった――というと嘘になるが、そんなことを考えている場合ではない。そろそろアジアンと四六時中、いや、家の中でまで一緒にいるのに慣れてきそうで怖くて仕方がない。もし、記憶が戻って変態行為が再開されたとして、アジアンの存在が近くにいることにマリアローズが慣れてしまったなら、更なる変態行為に走って調子に乗るのが目に見えているし、それが変態と書いてアジアンと読む馬鹿のすることなのだ。油断は禁物、と何度も言い聞かせるのに、アジアンの目を見ていたらそんな考えが吹っ飛びそうになるのも嫌になる。薄青色の目が、他人を見回すときには恐ろしいほど冷たい冬の景色であるというのに、マリアローズを見るときだけ、春よりも優しくて温かい癖に熱っぽい視線になる事が堪えられなかった。無理。僕をそんな目で見ないでよ。応えられないんだからさ。今までだってそんなふうに見ているなんて事は知ってた。
きみは気色悪いことに、僕しか見てない。いつもきみは言う。キミしか見えないって。キミだけを愛しているって。知っていたのに。変態だもんって適当にあしらえたし、無下にされてもきみは性懲りもなく僕を追いかけ回す事を、僕は知っていた。めげずに、僕だけを。酷い態度で接してもきみは笑顔でいるから。だけど、今のきみは違う。記憶がない所為なのか、酷く僕を真摯な目で見つめる。僕に縋るように。ずっと、飽きもせずに見続ける。息が詰まりそうになる。胸が痛むんだ。やめてほしい。いっそ追い出したい。けど、そんな事をしたら、僕ときみは一生会えないんじゃないかって思う。ジェードリからの帰り道、それを考えた。このまま会えなくなればいいって。もし、会ってしまったなら、さよならを言おうって。無理。無理だよ。できない。相変わらず、きみのことを好きにはなれない。きみが叫ぶみたいに愛できみを包むなんて無理。絶対に僕には出来ない。それなのに、きみを嫌いになれないんだ。きみのことを片鱗でも知ってしまったから。きみが本当に冗談とかからかいとかじゃなくて、僕が辛くなる程に想っているんだって、知らされたあの時、僕はきみを嫌いになんかなれないって思った。けど、無理だよ。それ以上は。出来ないのに。きっときみが僕から離れたら僕は――
「マリア、先にシャワーを浴びるかい?」
「え?」
 不意に声がマリアローズの耳に飛び込んできた。極上の美しさと優しい響きのある声だ。気が付くとアジアンが傍にいて、至近距離からマリアローズの顔を覗き込んでいる。不覚にもアジアンの接近を許してしまった。変なことを考えてたからだ。そうけりをつけて、マリアローズは「必要以上に近付くなって言っただろ」とアジアンを押し退ける。記憶がなくなった癖にアジアンはマリアローズ限定でスキンシップというのかボディタッチというのか、とにもかくにも肉体的接触をしたがる。時々、後ろからぎゅっと抱きしめてくるのだが、マリアローズは器用に逃げ続けていた。大体、男に体を触れられるのは嫌いだ。仲間内では大丈夫だし、非常に腹立たしいことにアジアンが触ってくるのにも大分慣れてしまっている。が、やっぱり嫌いだ。それにアジアンは馬鹿変態鬼畜卑劣悪漢極悪非道最低最悪凶悪助平なのだから、やはり油断は禁物である。
「一緒に入ったら時間短縮になるヨ?」
 てゆうか、記憶無くした癖に変態って何。しかもやっぱり僕限定で。
「それ、もう一度言ったら怒るよ?」
「仕方ないネ」
 ふう、と溜息を漏らすアジアンは前と違って演技臭くない。寧ろ心から残念がっているというのが本当なのだと分からせる。演技臭くて鬱陶しい時は「照れてるんだネ? ボクには分かるヨ。キミは(以下省略)」とか続けるくせに、現在のアジアンはすぐに諦めてちょっとしゅんとする。正直言って慣れない。ニューパターンで攻めてきやがったとも思えないから厄介だ。

 とりあえず、マリアローズは先にお風呂に入ることにした。二人きりでいても特に何をするわけでもないし、さっさと入浴して就寝する方がよいように思われた。それに、最近はアジアンの視線が気になって、何だか変な事を口走ってしまっているような気がする。どうすればいいのか、分からない。
 風呂から上がると、アジアンがバーニング・バラッドの「武技概論」を読んでいた。記憶を失っていてもかなり腕が立つ癖に、そんなものを読んでどうする気なのだろうか。
 アジアンは何処かの系統の武術を学んだ訳ではなく、我流で剣を振るってきたらしい。事情が事情だし、当然かな、みたいに思ったこともあった。アジアンが誰かに師事していたなんて想像もつかないし。虐殺人形という異名から想像できる。彼はただ死を振り撒くために存在し、そこに武術の醍醐味である真剣勝負などありえないのだ。彼は死を与える側であり、決して対抗できるなんていう希望的観測を許すはずもないのである。技術など無関係なのだ。彼は小細工など気にしない。
「……何してんの?」
 アジアンはマリアローズの方を見た。
あ、マリア、とびっくりしたような顔をして、慌てて本を閉じた。
「マリア、あがっていたんだ」
「今さっきね」
 まだ湿っている髪の水滴が衣服を濡らさないように掛けているタオルで少し髪を撫でた。そこで気が付いた。アジアンはマリアローズを直視しようとしない上に、頬が少し染まっている。なぁんかいやぁな感じがするのは気のせいだよね……?
「……きみも早くお風呂に入ったら?」
 汗のにおいなんかしないアジアンに風呂を勧めても意味がない気がしないでもないが。アジアンという男からは全くにおいがしない。無臭なのだ。黒ずくめで目立つはずなのに、存在感が消えるときがある。以前のアジアンならばありえない。アジアンは鬱陶しいくらいマリアローズに自己アピールする変態で、自称愛の騎士で、うざいくらい付き纏う馬鹿一号だ。なら、今のアジアンは一体なんなのだろうと考える。記憶を失っているアジアン。きみは、一体……
「それじゃ、お風呂に入ってくるネ」
 アジアンは微かに口角を上げた。うっわあ……と思わず見とれてしまう。ほんっと、アジアンって顔だけは綺麗なんだよね……。少しばかり赤くなっていそうな顔を隠すためにわざと素っ気ない返事をした。
 自分の家なのに、何故だか、居心地がいいのか悪いのか分からない。とにかく、これ以上一緒に過ごしている時間が長くなると、アジアンの所為でマリアローズがおかしくなってしまいそうになるのは確実だ。

 マリアローズがアジアンと同居して一巡月が経った。その間、アジアンの記憶が戻ったかと言えば、そうではなかった。戻る兆しさえ見られなかった。
 いっそ、医術士に見てもらうべきだと思い、けれど、アジアンの特殊な肉体構造が何らかの妨げになるのではないかと考え、かなり悩んだ末に、結局、アサイラムへ行き、モリーに診てもらうことにした。
 そんな頃には当然、秩序の番人達にもアジアンが本当に記憶をなくしており、番人らを惑わせる為の奇妙な噂ではないということが知られていたので、アサイラムの門をくぐるときも敵意剥き出しの態度ではなく、どう扱うべきか迷っている訳でもなく、徹底的に視界から真っ黒い存在を消し去るという手段に出た。
 きっと、憎き昼飯時の頭領があの時の記憶を失って全く何も覚えていないというのに、仇討ちしても意味がなく、だが、昼飯時は斬らねばならぬ悪、もしくはSmCの様に悪事の限りを尽くしている訳でもないがSmCに仕方なくとは言え従ったという事で限りなく悪に近い存在であるから、斬りたくて仕方がないから、とりあえず、高潔なる番人の誇りを保つためにも、アジアンを無視するしか方法がなかったのかもしれない。
 秩序の番人は確かにお人よし集団の集まりだが、正義の名のもとに馳せ参じた頭の固い連中でもある。決して彼らの個人個人をよく見れば、それは違うと分かるのだが、義こそを己の柱として命を賭けてエルデンの悪人共を斬りたおす彼らは一度でも悪の道に進んだ者を赦すことはしない。厳格過ぎるのだ。潔癖症な彼らは、しかし、それだからこそ、矜持を保てている部分もあるとは思う。
 マリアローズ個人としては、たった少ししか時間を共有しなかった焔という男や、ベアトリーチェを嫌ったりする事は難しいし、総長の羅叉はいけ好かないうえにおっかないし、勿論副長のヨハンだって好きにはなれないが、秩序の番人を理解できない訳ではないから、アジアンを無視した番人達に軽く会釈をした。彼らは苦虫を潰したような顔で会釈を返した。

 モリーは初めて間近で見る虐殺人形の顔に酷く興奮していた。確かにアジアンの容貌というのはこの世に存在しているのが不思議なくらい綺麗だし、黙っていればこれ以上ないほどの極上の美男子であるのは認める(大変不本意ではあるが)。現在はそういう事とはとんと縁がなくて蜘蛛の巣がはっているというモリーにしてみれば涎が垂れるのは仕方ないのだ。
 因みにベアトリーチェには席を外してもらっている。彼女の事を考えれば、いくら今のアジアンが記憶喪失であったとしても、会わせることはできない。ベアトリーチェにアジアンを連れてアサイラムに行くことは事前に伝え、マリアローズが「会わないほうがいいんじゃない?」と言ったのだ。ベアトリーチェは暫く黙って、「お前に余計な気を使わせるわけにはいかないからな」と言って彼女は今日、この場にはいない。
「マリア、彼女が……?」
 マリアローズがベアトリーチェの事を考えて黙りこくっていたので、アジアンが不安そうにマリアローズの顔を覗き込んだ。かなり情けない表情だ。とりあえず、モリーはアジアンの事を知っているだけで初対面であること
に変わりはないし、アジアンだってそうなのだ、マリアローズが仲立ちしなければならない。
「そ、この人がモリー。凄腕の医術士だよ」
頭の中は結構、いや、かなりエロエロだけど。そのモリーはにこやかな笑みを浮かべて挨拶をした。
「はじめまして、アジアン? 今日はきみの記憶に関して相談があるってマリアから聞いているわ」
「はい」
 礼儀正しく返事をしたアジアンに、モリーは目を輝かせた。舌なめずりをしているのはマリアローズの錯覚だと思いたい。
 モリーはマリアローズとアジアンを診察室の椅子に並べて座らせた。彼女は無論自らの椅子に落ち着いた。
「それじゃあ、先ずは記憶喪失の原因を考えてみましょうか」
「だけどモリー、アジアンも昼飯時の人達も考えてみたのにこれっぽっちも心当たりがないらしいよ」
 マリアローズが言えば、モリーはこちらを向いた。
「案外、気付かないことって世の中にはたくさんあるのよ、例えばきみが私の事を本当は好きで好きで堪らなくてあぁんなことやこぉんなこと、そぉんなことまでしたくてうずうずしているのに全く自覚してないこととか」
「いや、あぁんなこともこぉんなこともそぉんなこともお断りだから」
「マリアったら、自分の欲求に素直にならなきゃいけないわよ。我慢は体に良くないわ」
「今日は僕じゃなくてアジアンの診察に来てるって分かってる? 分かってるよね?」
 いつものモリーの悪い癖を指摘していて、アジアンの体がぴくぴくとしていることに気が付いた。何かアジアンが過剰反応することをしたかな、と疑問に思ったのはたった一瞬だ。
「マ、マリア? もしかしてそこの女とキミは……!?」
 顔を真っ青にして訊ねるアジアンにマリアローズは目眩に見舞われながらも、きっちりしっかり否定した。当然の権利であり、義務だと思う。
「馬鹿な誤解しないでくれる!? 僕は誰とも付き合ってないし付き合うつもりもないし付き合うはずもないだろ!!」
「そんな寂しい事言わないの」

「はあ、結局原因も解決方法も分からず仕舞いかぁ……」
マリアローズとアジアンはとぼとぼと歩いていた。エルデン一の医術士でも手立てがないなんて、思ってもみなかった。マリアローズは先程の診察でモリーが言ったことを頭の中で繰り返して、それから溜め息をついた。
 モリーはアジアンを看てから一言、「……難しいわ」とこぼした。その言葉の意味を問えば、守秘義務があるから教えられないと言い捨てられた。だが、そうそう簡単にはいかないから、長期戦を覚悟しておいた方が良いらしい。
 まさか、そんな難しいだなんて思っていなかったから、マリアローズもアジアンもどうすればいいのか、これからどうするのかを考えねばならなかった。と言っても、これからアジアンが何処で暮らすのかという問題だけなので、アジアンが腹を括らねばならないのである。というのも、アジアンはマリアローズと共にいればいずれ自然と記憶が戻ると考えてマリアローズの家に転がり込んできたのだが、思い出す兆しは一向に現れない。
 アジアンとマリアローズが共に過ごしてわかったのは、アジアンが再びマリアローズを愛したことと、マリアローズはアジアンに何もしてやれないことだけだ。マリアローズとアジアンは共に居てもどうにもならない。何も進まない。変わらないのだ。マリアローズには特殊な能力や才能なんてこれっぽっちもないし、どう頑張ってもマリアローズは平々凡々としていて、腕力だけで言うならばそこらにいる糞野郎共に劣っている。今までどうにか切り抜けられていたのは、頭を振り絞って知恵を働かせたり、ZOOのメンバーに助けてもらったり、アジアンに助けてもらったりしていたお陰でマリアローズ一人で何かを達成できたかと問われればなにもない。マリアローズは非力でちっぽけで弱くて何も出来ない存在でしかない。それは前々から分かっていたことだし、自覚して、言い聞かせて、調子に乗って失敗したりしないように慎重にしてきたはずだった。一番、忘れちゃいけないことだったのに。
 僕は、あいつに何かしてやれるんじゃないかって、僕のために大切なクラニィを、ローガンを失ったあいつに何か返してやれるんじゃないかって、ちょっぴり期待していた。僕のために仲間を全て失いかけたあいつを、追い詰められたあいつを、自己を見失いそうになったあいつを、少しでも助けてやれるんじゃないかって、だってあいつはいつも僕が一人で困っている時に助けてくれた、訳の分からない気色の悪い言葉で叫びながら、優しく僕を守ってくれていた。分かっていた。知らない振りをしていた。分からない振りをしていた。あいつはそれらの酷い行為を全て赦してくれていた。あいつはそれらを全て分かったうえで僕を守ってくれていた。愛、してくれていた。分かっていた。だからこそ離れたかった。離れられなかった。離れたいと決意したすぐ後にあんな事があったから、いや、違う、そんなのは言い訳でしかなくて、僕は気付いているんだ、ひっそりと、こっそりと、僕の中にある、あいつに対するこれを僕は気付いていた。知らんぷりするしかなかった。僕は、臆病なんだ。怖いんだ。きみが、きみは拒絶したり、見下したり、顔を顰たりしないだろうって分かっている。
 きみは僕を愛しているから。どうしようもなく僕を愛しているから。だけど、それでも、僕は無理だ。きみの捧げる愛情に報いることは出来ない。僕がきみに精々してあげられる事と言えば、例えば友達になって、一緒に食事に出掛けたり、買い物をしたり、そんなくらいで、僕はきみになにもしてあげられない、してあげられる事なんて限られていて、しかも本当にどうでもいい事しかなくて、だから、アジアン、きみと僕は一緒にいることは出来ないよ。僕は、きみに何もあげられない。