惜しむ

 同級生にして特級術師の両面宿儺は、俺のことを気に入っている。正確には、禪院家の相伝の術式の中でも最も格調高い「十種影法術」の術式を持つ俺を、活きのいいおもちゃとして気に入っている。
 初めて会った時は興味がなさそうだったのに術式を見せた途端、名前を覚えられて何度も声をかけられるようになり、視線をたまに感じるようになった。五条先生曰く、「宿儺は強いやつにしか興味ないからね、将来性見込まれてるんじゃない」とのことだった。その言葉は正しく、時折手合わせに誘われ弄ばれるようになり、俺は宿儺のお気に入りとして他人からも扱われるようになったし、友人と誤解されることも増えた。実際には友人と呼べるほど対等な関係ではない。
 宿儺には他者への共感性がなく、生きているものとそうでないものの区別がない。
 自分を楽しませるものかどうか。それだけが基準だ。
 誰が死のうと生きていようと興味がない。たとえ現代最強の五条悟が死んだとしても「そうか」で終わらせてしまうことだろう。過去に楽しませた相手であっても、その死を惜しんだりしない。
 そんな事はずっと前からわかっていたから、俺は自分から宿儺に近寄ることはしなかった。
 自分にとって何を優先すべきか分かっていたし、それ以外はどうでもよかった。姉さえ無事で、幸せでいてくれたらそれでいい。幸せになるべき人が守られていてくれたらそれでいい。
 だから、宿儺のことも「どうでもいい」ことにした。

 なのに、どうして今更宿儺に惜しんでもらいたいと思ってるんだろう。

 二級術師は単独任務をあてがわれる。俺もまた例に漏れず、北関東の山奥の呪霊を祓うために補助監督を麓に待たせて立入禁止区域にて単独任務を遂行した。
 だが、対象の二級呪霊は窓の報告後により強くなり、一級相当へと変貌を遂げていた。
 結果、右肘と左膝から下を失った。呪霊は払えたがこれでは相打ちだ。
 麓から現時点まで直線距離でも長く、麓で待たせている補助監督に連絡を取れたとしても三時間はかかる。
 生きては帰れないし、万が一生きていたとしても呪術師としてはおしまいだ。掌印なくして俺は戦えない。影の運用について掴み始めていたところで、式神を呼び出す以外の可能性を探っていたが、メインはやはり式神だ。それを呼び出すことができないなら俺に呪術師としての未来はない。
 呪術師じゃない俺は宿儺にとって価値がない。
 失望されて無視されるくらいならまだいい。もしかしたら、虫けらを見るような目を向けられるかもしれない。ただの仮定で胸が痛くなる。
 なんであんな男にこんなことを思うんだ?
 なんでこんなときにあの男を思い出す?
 非常識で身勝手で傲慢で、何一つ幸せになるべき人とは似ても似つかぬ、寧ろ嫌悪すべき男なのに。
 俺は何故津美紀よりも先にあの男の事を考えてしまったんだ。
 他の皆は俺が死んだら泣くだろうし、惜しんでくれる。これは独りよがりな願望ではなく、そういう姿を何度も見てきたからだ。だから申し訳なく思えども、寂しくも怖くもない。
 でもあいつだけは違う。同じ特級の五条先生や乙骨先輩が死んだとしても惜しんだりしないだろう。況してや俺なんて。
 だから怖い。
 少しくらいはなにか思ってくれたらいいのに、なんて馬鹿げている。
 あり得ない、あいつが誰かの死を悼むなんて。
 あいつは呪術そのもの以外への執着が薄い。呪術にのみ情熱と時間を注ぎ、夢中になる。他人の術式は無限にある呪術の可能性を知るための一手でしかなく、究極的に自己中心的で他者を尊重することはない。
 俺はただこの珍しい術式に興味を持たれただけだ。俺個人に用はないだろう。
 もしかしたら、勿体ないくらいは思ってくれるかもしれない、なんて都合の良いことを考える。
 死ぬ間際くらい、ありえないことを望んだって許されるだろう。力が抜けていく。瞼が重い。もう目を開けていられない、と自覚した頃には意識を失っていた。

 温かい。全身を覆う何かよりも、唇に違和感がある。とてつもないエネルギーを注ぎ込まれているのは分かる。まるで火傷しそうなほどの熱が唇から全身に伝わって体が温かくなる。
 次第に口の中に何かが物理的に侵入していることを感じ取れるようになった。嫌悪感はない。なんだろうと瞼を上げて、驚愕した。
 見覚えのある呪印が刻まれた顔面が目の前にある。逞しい腕と大きな手で固定された頭はピクリとも動かすことができないから、宿儺が口伝いで注ぎ込む反転術式と絡まる唾液を受け止めることしか出ない。
 目を開けたままマウストゥーマウスで反転術式を施していた宿儺は俺の意識が戻ったことに気付くと、一旦顔を離した。
「気分はどうだ」
「なんで…お前、任務は――?」
 宿儺は高専と縛りを結んでいるという噂で、とても命令に従いそうにないのに与えられた任務は全て完了させている。任務を放棄したこともない。なのにこんなところにいるのが信じられない。もしかしてこれは死の恐怖を紛らわせる為の幻なのではないか。
「そんなものはどうでもいい。手足は生やしたが、脳までは俺とて専門外だ。どうだ?」
 額に唇を押し当てられている。反転術式を効率よく回すためだと分かっているのに、体が密着している状態ではまるで違う理由があるように感じる。というか、手足を生やしたとは?
 恐る恐る右手を持ち上げたら、確かに爪の先まで右手が存在していた。左膝も同じだ。服は裂けたままだが、傷一つない足がそこにはあった。
「まだ覚醒しきっていないか」
 宿儺が顎を持ち上げて、また唇を重ねる。呼吸と反転術式のエネルギーが惜しみなく注がれる。
 何が起きているのか分からない。宿儺はこんなことを態々する男だったのか? 丁寧な救命行為に頭がくらくらする。鼓動が早くなる。信じられない。脳が見せている幻覚としか思えない。
 試しに舌を動かして、宿儺の口内に触れる。途端に自由に動く分厚く生めかしい何かが絡んできた。より深く潜ってくるそれにびっくりして舌を引っ込めると、くつくつと笑われた。
「峠は越したな」
 頬に手を添えられながら視界いっぱいに映る宿儺の表情を見るなんて日が来るとは思わなかった。
 指の背で宿儺の頬を撫でる。温かいし、質量がある。夢ではない? いや、実感なんて脳の錯覚で、夢ではないなんて確証を触感で得ようとするのは間違っているのでは。でも、この疲労感は間違いなく現実なのでは。
「反転術式……使えたんだな……」
「他人に使うのは初めてだがな」
 なんて返せばいいのか分からない。初めて他人に施したのか。なんで俺に? マウストゥーマウスは効率がいいが、読んで字の如く口を重ねる行為だ。宿儺はこんなことを好まないのではないのか。何故効率よく俺に反転術式を施したのだろう。確かに死にかけていて急いで治療を施すべき状態だったが、宿儺がそこまでする理由があるのか? この男は、他者なんてどうでもよくて、ほとんどの人間が路傍の石でしかなく、偶に強者という花を見つけては愛でるが枯れれば捨てるような、そういう男ではなかったのか。
 呆然としていたら、そのまま横抱きにされて持ち上げられた。何が起きているんだ? 頭が追いつかない。現実とは思えぬ光景が連続して襲いかかってくる。
「寝ろ」
 瞼に口付けられたのを最後に俺の意識は途絶えた。

 医務室で一旦家入さんの診察を受け、特に問題無しとのことだったが、やたらと顔を見られていた気がする。宿儺の残穢がべったりついているからに違いない。居た堪れなくて自室のベッドに力なく腰掛ける。
 人命救助活動に何かしらの感情を抱くとしたらそれは感謝の気持ちと精々罪悪感であるべきではないのか。救助活動をさせてしまう自体に陥った自分へ落胆とか。そういうものであるべきで、八つ当たりしたくなるようなもどかしさは抱くべきじゃない。失礼すぎる。
 唇に触れる。ほんの六時間前、この唇は宿儺に触れられていた。それについてどう考えればいいのか分からないが、宿儺は間違いなく何とも感じてない。他者への口腔を通じた反転術式を試せたという程度の認識じゃないだろうか。
 体を倒して虚空を仰ぐ。感情のラベリングができない。ラベルの付いたかごに感情を入れてしまいたい。そうすれば納得もできるし、落ち着くこともできるのに、様々な過去から生じた感情が複雑に絡み合ってしまい、今抱えている気持ちを処理しきれない。
 腕で視界を覆っても何も変わらない。当たり前だ。
 起き上がって隣りにある宿儺の部屋を尋ねた。スケジュールがどうなってるのか知らないが、何となくいるような気がしたのでドアをノックすれば、入れと返された。
「なんだ」
 宿儺は至って変わらぬ態度でいる。それもそうだ。こいつにとって何か特別なことではないのだろう。それにあたって生じたものは無視する。今は事態をややこしくするだけだ。いつか消えるかもしれないその淡い何かよりも、まずは感謝の言葉を伝えなければ。
「いや、昨日は助かったから……」
 どうでもよさげで、五条先生みたいに恩着せがましいことも言わず、虎杖のように気にすんなと笑うこともなく、「ああ」とだけ宿儺は返した。
「お前も反転術式を会得するといい」
「呪力量の差を考えろよ……」
 圧倒的に呪力ロスの少ない五条先生や、幼馴染を縛り付けるほどの呪力量を誇る乙骨先輩、そして立っているだけで呪霊が消滅しかねない呪力量を誇る宿儺と同じ土俵に立てる気がしない。
 なのに。
「お前ならできる」
 ああ、この目だ。宿儺の不思議な色合いと奇妙な柄の虹彩がまっすぐ俺を見ている。ずっとこの目から顔を背けてきた。耳を傾けてはいけないと言い聞かせていた。
 でも、今はお前のその目に映る自分になりたい。期待されている自分こそ、将来の姿にしたい。
 お前が少しでも俺を惜しんでくれるなら、俺はお前の期待に応えたい。
「コツとか……教えてくれ。教科書や家入さんの話だけでは感覚が掴みにくくて」
 宿儺は目をパチクリと瞬かせた。今までこの手の話をされても俺が逃げていたから、ちゃんと受け答えしたのが珍しかったのだろう。
 部屋から出たいが、自分から話題を振った手前動けない。何か返せよ、そんなに返答に困ることを言ったか? 教えろなんてこいつに頼むべきではなかったか? でも、反転術式を感覚ではなく理論で行っていそうなのが宿儺くらいしかいない。五条先生の説明は微妙にずれているし、あれは六眼ありきの運用にしか聞こえなかったし、家入さんと乙骨先輩は完全感覚派で理屈抜きで「やれるからやってる」でしかなかった。
 だから宿儺しかいないのに。
「いいだろう」
 にやりと宿儺が口角を上げた。いまからやるぞ、と宿儺はなんだか楽しそうだった。
「お前が腕の一本や二本、容易に生やすことができるまで付き合うぞ」
「それ今日で終わらねえだろ」
「お前の頑張り次第だ」
 背中を押されて部屋を出る。これから演習場に向かうのだろう。宿儺は手加減とかできるのだろうかと不安になったが、まあ実戦で使うためにはそれくらいの緊張感が必要かもしれない。
「死ぬな、伏黒恵」
 さらりと言われた言葉に頭が真っ白になった。言われると思ってなくて聞き間違いか聞き返したくて仕方がない。
「死なれては困る。反転術式は死物狂いで覚えろ」
「え、あ、おう……分かった」 
 聞き間違いじゃなかったらしい。頭の中で何度も反芻する。忘れたくない。絶対に。それこそ死ぬ間際に思い出したい。宿儺が俺を惜しむなんて。
 拳に力が入る。死物狂いで反転術式を覚えなければならないが、その価値はある。
 共に歩みだした宿儺の横顔を見る。俺が死んだとして、こいつの悲しむ顔は思いつかないが、そんな顔はさせたくない。
 やり遂げるべき目標の向こうに津美紀だけでなく宿儺もいることについては、おいおい考えるしかない。
 今はただ、俺の可能性を信じてくれる宿儺の期待に応えよう。
 それが今できる俺の精一杯の答えだ。

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