初夜
恵は御簾の向こうに座る男に困惑していた。
いくら恵のお陰で栄え、立派な邸を構えていても、恵が住まうこの地は帝が来るべき場所ではない。都から遠く離れた鄙(いなか)に、やんごとなき身分の人間を饗せるものは何一つない。
最初は騙りかと疑ったが、帝と恵しか知り得ぬ文の内容を話されては、このふてぶてしい男が今上帝であることを認めなければならなかった。
「今宵の月は美しいが、あんな所に帰るつもりなのか」
「ええ、左様です」
竹から出てきた恵を育ててくれた老両親はそれを知り嘆き悲しんだので、誰一人として心を許さぬ氷のようだと評される恵も流石に申し訳なく、最近はかなり気が滅入っている。
月に帰らねばならないことを忘れて別れの時まで過ごしたくとも、八月の満月の夜が近付いているせいで誰もが意識せざるを得ない。
そんな状況で、再三会うの断った帝が直々に尋ねたので、恵は頭が痛くて仕方がない。
まさか帝ともあろうものがこんなに無礼だとは思いもしなかった。
生まれた時から何もかも与えられ何不自由なく育ち、誰にも妨げられることなく生きれば、このようにもなるのだろう。
「何故戻る」
随分と物騒な顔で恵を見つめている。幾度となく交わした手紙から、恵に対する好奇心が強いことは分かっていた。物珍しいだけだろうと大して気にしていなかったが、存外、帝は恵に執心していたらしい。
「ご満足頂ける答えは返せません」
この男とのやり取りの中でおおよその性格は掴んでいる。
思った通り、帝はその返しに「確かに満足はせんだろうな」と鷹揚に頷いた。
「月の都の人よ、何故この地に来た。人々の心を掻き乱し、世を乱すのが目的だったか」
数年前の公達らの求婚の事を言っているようだが、恵にはそのような意図はなかった。
周りの連中が異様に盛り上がって恵の元に通い詰めた挙げ句、噂を聞きつけた公達らがやってきて好き勝手したのだ。最終的に、恵を嫁がせたくない翁が老齢にもかかわらず鉈を振り回して悉く追い返した。これがまた世に広まってしまって、恵はかぐや姫として有名になり、これを機に帝が文を寄越したのである。
勿論、そんな事の為にこの不浄の地へ降り立ったわけではない。
長く込み入った話になるし、言いたくないと伝えたところで納得する男ではないと分かっていたのに、随分と気が滅入ることばかりで疲れていたからか、つい口を滑らした。
「疑われたのです、不貞を」
地上に来る前、恵は由緒ある血を継ぐ女だった。出奔した男の子供だったので、育ちはお世辞にも良いとは言えなかったが、由緒ある血と生まれ持った力を理由に、月の都の最も貴き人に嫁ぐ予定だったのだ。
しかしながら、嫁ごうという日の前日になっていきなり不貞を疑われ、罪を償う為に不浄の地で身の潔白を証明しなければならなかった。穢れたこの地で操を守れば、戻ってきても良いと言われ、結果、五人の男を退けたので、迎えが来たのである。
別段、戻りたくはない。元から嫁ぎたいとも思わなかったし、このような不条理を押し付けてくるような連中と生きていくのは不愉快だった。
しかし、人の身としてこの地で生きるには、恵は少々人を引き寄せすぎる。育ての親である翁と嫗を悲しませたくはないが、これ以上迷惑をかけたくはないから、月の都に帰るのだ。
「ならばその罪、真にしてみせよう」
だん、と御簾を上げ、帝が押し入ってきた。非常識にも程がある。慌てて顔を隠そうにも扇を取られ、反らした顔も大きな手で包まれて、結局、目を合わさなければならなかった。
帝は御簾越しに見えた顔よりもずっと獣のようだった。実際、恵の知る人間とは異なり、四つの瞳、四本の腕がついている。
これがこの地で最も貴き人なのか。もっと違う何かだ。恐ろしいものを集めて人の形にしたような、ぞっとする姿なのに、どうしてか嫌悪感を抱かない。恐らく、ずっと文を交わしていたからだ。言葉のやり取りの中では見えないものもあるが、その中でしか知り得ない、感じ取れないものもある。その予感はずっとしていた。だから会いたくなかったのだ。
「俺が望んで手に入らなかったものなどない」
そうだろうと恵は観念した。裸足で逃げ出したとして、この男は恵を諦めない。どこまでも追いかけ、その四つの手で恵を捕まえるだろう。
大きな手が艷やかな恵の黒髪を耳から梳き、頭の形を確かめるように触れる。
「名を言え」
かぐや姫とは単なる通り名だ。光り輝く恵を翁の知り合いがそう名付けた。今も夜だというのに、月のように光り輝く恵の肌を、帝は遠慮なく撫でている。初めて触れる人の熱は恵の気持ちを落ち着かなくさせた。
「恵、と」
帝はにんまり笑って、恵を押し倒した。
「人の身でないのは俺も同じ。人ならざる者同士、共にこの穢土を謳歌しよう」
帝は上機嫌で恵の唇を奪った。
月が二人の逢瀬を見ている。罪を重ねた行く末がどうなるのか知る由もないが、この男は恵が地獄に落ちても手放すことはないだろう。
ならば、この身を委ねよう。強く逞しい背に手を回し、恵は罪に溺れた。
――続きは新刊で
歪んだ呪いは拘束すべし
どうしてこうなったんだろう、と虎杖悠仁は頭を抱えた。自分達の生まれが悪いのは知っていたが、更にこんな問題を引き起こすなんて堪ったもんじゃない。級友の指を握りながら、悠仁は双子の兄である虎杖宿儺と担任の五条悟が話し合っているのを聞いていた。
事の始まりは、傍若無人で横暴で他人への関心を一切持たない自己中心的な兄が伏黒恵という同級生に恋をしたことだ。恵と出会ってすぐに、相伝の術式たる十種影法術を甚く気に入り、普段、唯一の身内である悠仁にさえ話しかけないところを、「伏黒恵はいい」と語り始めたことからも、どれだけ気に入っているか知れた。
当初、その気に入りようをどうしたものかと恐れていたが、段々と本気で恵に惚れ込み始めていることに気付き、更に頭を抱えた。
宿儺は今までの環境から情緒が育っているとは言い難く、頭は切れるが、人間的な問題が多すぎる無法者だ。五条を上回る呪力量を持ち、体格が良く上背もあるため威圧感もある。誰からの指図も受け入れない我が儘なところも含めて、扱いが難しい。そんな男を好いてくれる人間はそうそういない。だから、悠仁は宿儺の初恋は叶わないだろうと思っていた。
だが、伏黒恵はちょっと変わった男だった。よくよく知れば、優等生キャラと思われた恵は中学時代、同級生のみならず、地域一帯の不良や半グレ、その他、気に入らない相手をボコっていたらしい。関係者によると不良の山の上で座っていたこともあるとか。ちょっと不良という程度ではない。かなりの暴れん坊だ。
半グレを殴ってしまう男が威圧感だけでビビるわけがない。宿儺に言い寄られていることは迷惑そうだったし、呪術師として強すぎる宿儺を警戒している素振りはあったが、怖がっている様子はなかった。
そして、出会って三ヶ月後、宿儺の口説きに辟易した結果、宿儺が飽きるまでと諦めて付き合い始めたのだ。
結果、恵が解除不可の呪いをかけられた。正確には、解除条件はあるのだが、条件を達成できないために、呪いを解くことができないでいる。
呪いは「宿儺が愛する相手に殺される」というものだ。宿儺にかけられたこの呪いにより、「宿儺が愛する相手」である恵は呪いに支配されるというややこしい事態になったのである。解除条件は勿論、恵の手で宿儺が殺されることだ。
呪いが発覚したのは関係者全員にとって最悪なタイミングで、恵が宿儺の部屋に一晩泊まった翌日の朝だった。
その朝、誰もが寮から少し離れた所から聞こえるけたたましい音で目を覚ました。
宿儺が根城にしている建物の付近だったため、すわ敵襲かと勇み立って駆けつければ、そこには背中に爪痕を残している宿儺と、首筋に鬱血痕をつけた恵が殺し合いをしていたので、皆が混乱した。
何なら駆けつけた五条も、「は? マ? 早すぎじゃない? 今どきの子供って手ェ出すの早くない? 未成年でしょうが」と少々動揺していた。
周囲の戸惑いなど知らぬ様子で、二人は死闘を繰り広げていた。既に心臓を一度貫かれたらしく、呪具を胸に刺したまま宿儺が暴れ、恵が式神たちをけしかける。宿儺の破壊力は凄まじく、常に任務でも建物の一つや二つは粉々にしているので、当然、宿儺が根城にしていた建物は瓦礫と化しているし、胸に呪具を刺したまま暴れているせいで宿儺の血が撒き散らされたり、攻撃の合間にまろび出たらしい内臓やらも転がったり、恵の持っている呪具もバカスカ破壊されている結果、被害総額が物凄い血濡れた空き地ができたのである。
事情聴取をしたところ、宿儺はなんてことのないように言った。
「伏黒恵と媾合した」
この言葉に一瞬誰もが漢字を思い浮かべられなかったのだが、パンダが「え、コウゴウってセックスのこと?」と確認したところ宿儺が頷いたので、身内以外には席を外してもらい、五条と悠仁は一旦休憩を入れた。
そうだろうとは思っていたけども。察してたけども。本人の口から聞きたくなかった。
なんとかメンタルを立て直して部屋に戻り、話を聞くと、恋人らしい初めての素晴らしい夜を過ごした後(詳しい説明がなくて安心した)、朝を迎えて目を見つめ合った瞬間、恵が何処からともなく取り出した呪具で宿儺の胸に穴を開けたのだという。
「この呪いが発動するまでに、二つの条件を満たす必要があったのだろう。即ち、俺が誰かを愛すること、その対象と媾合することだ。それにより、息をひそめていた呪いが姿を表し、俺達を殺し合わせた」
鉄製の椅子に拘束された恵の指を触りながら宿儺が語る。
首と名のつくところは全て呪力で強化した椅子に拘束され、アイマスクとイヤープラグで視覚と聴覚を奪うことで恵は今大人しくしているが、これを外せば一目散に宿儺を殺そうとするのは既に明らかになっている。ここに縛り付けるだけでもかなり時間が掛かったのだ。
術式の性質上、指の一本一本も拘束されている中で、辛うじて動かせる小指の第一関節で宿儺に縋ろうとしている姿はいつもの恵からは考えられないものだった。平素は感情を表に出さない冷静な男であり、宿儺と付き合っていると言っても外では素っ気ない様子であったのに、今は形振り構っていられないのだろう。
また、恵が「宿儺が愛した相手」として認められたということは、宿儺は本気で伏黒恵を愛しているということだ。両者に対して信じられない気持ちでいっぱいである。蓼食う虫も好き好きやら、破れ鍋に綴じ蓋やら、昔から言葉はあるが、目の前にすると混乱する。
「そんな呪い、誰がどうやって宿儺にかけられるんだ?」
宿儺は一歳になったばかりの頃、呪詛師である実母に殺されかけたことがある。恐ろしいことに、反撃して逆に母親を殺して生き延びたのだから、呪術界は騒然とした。一般的に術式が発現するのは四歳から六歳と言われており、術式にもよるが人を殺せるほど使いこなすまでにはかなりの時間がかかる。一歳で不可能なことをやってのけた宿儺は、術式と名前のせいで両面宿儺の生まれ変わりと恐れられている。何度も殺されそうになったが、一度だって血を流すような怪我を負ったことがない。そればかりか術式の解釈を拡げたり、反転術式を用いたりと天才の名を恣にしている有様だ。チンケな呪詛師では宿儺を呪うことなどまず不可能であるし、よしんば呪えたとしてもすぐに呪詛返しをされてしまうのがオチだ。
齢十五にして呪術を極めた男は、双子の片割れである悠仁の疑問に深い溜め息をつき、侮蔑の視線をよこした。小さな頃から悠仁は兄に疎まれていたが、恵と出会ってからの宿儺はより罵倒のバリエーションを増やして弟を馬鹿にする。悠仁の察しと頭の悪さに呆れているのだろう。恵の頭の良さと比較されているに違いなかったが、悠仁はフィジカルに全振りされたから仕方がないのである。いつものように不満げな顔をしたら、五条が口を開いた。
「恐らく君らの母親だ。粗さから考えて、死ぬ間際に宿儺だけ呪ったんだろうね」
五条ですら見抜けなかったのは、宿儺の呪力の凄まじさの奥に潜んでいたからだろう。宿儺の呪力は常に燃え滾っていて、まるで太陽のように近付き難いものがある。
その宿儺はうんざりした様子で「愚かな女だ」と吐き捨て、恵を見つめている。誰にも向けたことのない目が、その心を表している。
今のところ判明しているのは、視覚と聴覚から宿儺を認識すると自動的に殺すためのありとあらゆる行動を取ることだ。呪力で反応しないのは不幸中の幸いだったと五条は言う。死に際に掛けた呪いだったからこそ強力で今まで消えずに潜んでいたのだろうが、そのかわり少々雑な呪いになったのではないかというのが五条の見解だ。他の感覚である嗅覚、味覚、触覚は宿儺を識別するには根拠が弱いためか、含まれていない様子だった。
「さ~て、どうやって解除するかね」
五条がう~んとわざとらしく唸ったが、宿儺は「俺が死ぬしかない」とバッサリ切った。
「これは俺にかけられた呪いだ。伏黒恵に何かを施したところで意味はない。俺が死なない限り、この呪いは解けないだろう」
誰よりも呪術を極め修めた宿儺が言うのだから間違いないだろうが、悠仁は息を呑んだ。
生まれてこの方、兄のことを一度も家族と思ったことはない。しかし、目の前で「死ぬしかない」という言葉を聞いて呆然としている。死んでほしくないという明確な抵抗もないが、死なれるのは待ったをかけたくなる。生まれがどうであれ、唯一の肉親だったし、何より、今までどんな事があっても怪我一つ負わずに相手を倒してきた宿儺が、もしかしたら好きな子のために死ぬかもしれないというのも奇妙な気持ちにさせた。そんなことができるのか、お前。今までの宿儺から想像もできない。愛で変わるような男だったのか。
「それは最後まで取っとくべきだよ。恵が可哀想でしょ」
五条と宿儺は喧々諤々と話し合った。悠仁では理解が追いつかない言葉や理論で話し合っているらしいのだけは分かる。元々悠仁は小難しいことは苦手だったから、二人の会話にはついていけなかった。宿儺が握っているのとは反対の恵の指を握ってやりながら、二人の会話が終わるのを待つことにした。
結局、宿儺が恵に殺されることになった。ただし、すぐに復活するという反則付きで。
呪いの目的は宿儺を殺すことだ。しかも、愛する対象に殺され絶望してほしいという歪んだ願いから生まれたであろう呪いなのだ。恐らく、普通は呪いが発動した時点で死んでしまうのだろうが、宿儺は驚異的なレベルの反転術式を持っているため、すぐには死ななかった。死なないからこそ、事態がややこしくなっているとも言える。
「とりあえず、一度死んでみるか」
――続きは新刊で
