春知らず

 白い花弁が道に散る。川に流れるさまを花筏と呼ぶと聞く。学のある男が左様な事を酒を楽しみながら時々話す。別れた師も酒の肴に花を挙げた。師は相変わらず春には夜桜を愛で、 夏には星を見上げ、秋に満月を眺め、冬には雪を見つめながら酒を楽しむのだろう。そんな飲み方を覚えられなかった、不甲斐ない弟子を師が忘れてるといいと思った。
 こんな愚かな弟子を。女一人守れぬ不出来な男を。ふと振り返る。去年の事だ。まだ暗殺をしていた頃の話である。
 夏に出会った女と、秋に共に暮らし、冬に斬った。あの女が春にはどうするのか知らない。夏は無知な男を静かに責め、秋はその男を見定め、冬はその男を庇い死んだ、あの女が春はどうするつもりだったのか、知らない。分からない。だが、花の咲く頃までは共にいられなかったろう、梅は桜の前にこぼれ、散りしおれる。あの女を横にして花筏を見ることはなかったろう。
 ゆえに、この目は花を見るのを嫌がる。春を知りたくはないと駄々をこねるこの体は、冬には耐えられないだろう。雪のあまりの白さに目が見えなくなったと言い告げ、花を眺めるのを拒む。夏の暑さに頭をやられ、秋の夕日に目をやられ、冬の寒さに手足をやられ、そうして動けなくなったならば、この体は土になる。土となって花の咲く助けになればよいが、生憎と血にまみれたこの身では花に拒まれるだろう。白い花が赤く染まってしまう。
 花を愛でずに血で染め上げ、星を見上げることもなく人を斬り、月明かりのない夜に刀を血脂で汚し、雪の中に屍を埋める、こんな男は師のように生きられない。清廉で美しかったあの女がもし今生きていたとしても、恐らくは逃げ出してしまっていたのではあるまいか。鬼のように恐れられる癖に、剣を奪い取り、その能面を引き剥がせば、そこに現るは一人の無知で惨めで怯懦な子供である。あのままでいたいと願ったのはこの臆病者である。剣客ではない、無様で浅慮な薬売りである。だがその薬売りはもう二度と日の目を見ない。
 酒が不味くて仕方がない。吐きそうだ。上役は難しい顔をしながらも酒をぐいぐい飲んでいる。夜があける前には酒に呑まれていよう。それまでの辛抱だ、とお猪口を置く。注がれる酒の清らかな色に、吐き気を再び覚えた。酒には邪を払い清める力があるというが、骨まで染みるほど血を浴びた鬼は清められぬのではなかろうか。いや、清められたくなくてこの身が酒を拒むのか。五臓六腑まで見知らぬ者達の怨嗟にまみれたこの身では、酒などでは清められないのであろうか。あの女と暮らした時には美味かったのに。あの時は清められたのであろうか。
 下らん、と頭を振る。女はもういない。酒の味などこの先分からぬままであろう。清めるも何もない。清めた所でこの腕と刀で斬った者共は戻ってこないし、罪が消えるはずもない。
 刀を抱えて眠りたい。あの女を斬った憎い刀だけが、あの女が生きていたのだと思えるもので、女の綴った日記は手元にない。あれを肌身離さず持つのは恐ろしくて到底出来ない。だから女を斬った刀を抱くのだ。
 目の前で赤ら顔になっている男が言う。
「花を愛でながら飲む酒はいい。女もいればもっと良い。これだから春の夜は待ちきれん」
 緋村抜刀斎は、そうですね、と無愛想に相槌を打つ。春が来なければいいのに。雪の降りしきる中でこの目を閉じ、耳を塞ぎ、春が来るまでに息絶えてしまえたならば、と願うが、こんな男の願いなど叶うはずもない。
 花の散る前にこの戦が終わるといい。そうすれば、抜刀斎は死ねる。死ねるのに。