兄の結婚

 夏の話である。長兄が嫁をもらうという話に墨村家一同驚きを隠せず大騒ぎしたことは、長兄の予想と違わなかったらしい。相手はかつて封印前の烏森を襲撃した鬼使いの春日夜未という女性で、良守にしてみればいつの間に知り合ったのかという疑問もあり、また、どういった経緯でこの二人の縁が結ばれたのかも大いに謎であったが、二人は墨村の家を訪れ、祖父と父に挨拶をしたのだから冗談ではないのだろうということくらいは判断できた。
 それが良守の高校二年生の夏の話である。
「正守さん、結婚するんですってね」
 大学生になり地元を離れていた時音が、夏休みだからということで帰省していた。挨拶もそこそこにその話題で、良守としては妙な気分である。
 兄の交際関係に関して、良守は全く知らない。かつて兄が家にいた時は良守が幼くその手の話題に興味がなかったし、そういうことが理解できるようになった頃には兄は家を出て外に居場所を作り家には帰らなくなっていた。
 だから、兄がきちんと男として誰かとお付き合いしているところなど想像もつかなかったし、またその相手が相手で、良守は春日夜未の事を全く知らないわけではないが、かと言ってそこまで面識もなく、とにかく兄と彼女が知り合いであったことにそもそも驚いているような有り様なので、時音がそわそわと落ち着きなくその話題を振ってきたとしても、良守は曖昧な反応しか返せないのである。
「式は色々忙しいから来年にするってよ。春日さん家にも挨拶するらしいし……」
「来年なんだ、でも仕方ないわよね、夜行も仕事多いもんね」
 雪村家の縁側で氷の入った麦茶を飲む。風鈴が時々ちりんちりんと音を鳴らしている。それほど高くもない塀の向こうでは挨拶ついでに色々と兄とその嫁が父と共に式についての相談事をしたり、結婚後のことについてあれこれ話し合いをしているのだ。全く妙な気分である。
「あと式場決めるのとかうんたらかんたらって言ってた。よく分かんねえけど、かなり面倒臭いっぽいぞ、結婚式の段取り」
「そりゃ、一生に一度のイベントなんだもの、面倒くさくて当然じゃない? それに、面倒くさくても一番の思い出にしたいもんよ」
 隣に座る時音の顔を伺えば、普段通りである。詰まらないので話題を変えたいが、時音の方はそうでもないらしい。男所帯で、尚且つ不在がちだった母も乙女チックな女性ではなかったから良守にはよく分からないが、世間一般に言わせると結婚というのは女の憧れだそうなので、時音も身近な人物が結婚するということであれこれと気になるようである。特に、正守に対して時音は肯定的なイメージしか持っていないので、良守の感じている違和やむず痒さなどは全くないから素直に関心を寄せることが出来るのだと思われる。
「なぁんかなあ……」
 言葉にならない、この曖昧な、苛立ちにも似た兄に抱く感情を時音には話せないことだけは分かる。時音は兄弟姉妹を持たないし、身内の男が結婚するという、この奇妙な出来事を理解してくれることはないだろう。
「どうかしたの?」
「いや、なんでもねえ」
 空になったコップを横に置き、遠慮なく寝そべる。家の構造は多少異なるといえども、同じような古さなので、畳の香りなども変わることはなかろうと思っていたが、雪村の家からは女のにおいがする。生々しいものではない、ただ、男ばかりで汗臭い墨村の家とは違い、少し甘いような気がする。多分、夜行の本拠地は墨村と同じように汗臭いだろう、頭領である兄は身だしなみに気をつける方だが、それでも男臭い。春日は男臭いあの組織の中にいるのだろうか。
「元々凄い人だから、お隣に住むお兄さんなのに遠い人だなあって思ってたけど、更に遠くなっちゃったなあ……」
 時音は良守の顔を見た。批判するでも馬鹿にするでもなく、ただ、じっと見ていた。
 兄と良守は同じ両親を持つが顔は似てない。兄は間違いなく母親似で、良守は父母のどちらにも似ないで祖父に似ている。性格もだ。母も兄も良守には何も言わないし、自分勝手で、いつの間にか大きなものを背負ってあれこれやっていて、無神経だったり優しかったり訳が分からなかった。反して、祖父と良守は突っ走っては失敗してあれこれとやかく騒ぎながらも何とかするタイプだ。術者としての傾向は違う。祖父は案外細かい技術を使いこなせる。正守も力押しより技術でどうにかする。母は持て余した力を自分の目的の為に使いこなしたが、技術は一流の癖に強引で力押しである。良守はまだ母の領域どころか兄とも比べ物にならないくらい拙いので、とにかく勢いで済ます。
 時音は正守と同じく技術で勝負する。良守にしてみれば、時音と正守の距離は近いとはいえなくても遠いとは思えない。
「なんで? 単に結婚するだけじゃん。まあ、家は遠いけど。夜行の本拠地近くにするかもしれねえってよ」
「あんた、馬鹿ねえ、そういうこといってんじゃないわよ」
 時音は麦茶を飲み干して、立ち上がった。すらりとした足を寝転がりながら見るのはちょっとドキドキした。
「あんたはいつ結婚するんだろうね」
 恐らく台所に向かったであろう時音の足音があまりしないことに、所作が丁寧だったなあと思い出す。墨村家は大体足音がうるさい。男ばっかりなので、最年少で体重の軽い利守と小説家の父は普通くらいなのだが、良守と不機嫌な時の繁守の足音のうるささと言ったらない。
「時音ぇー! 俺もお茶おかわり!」
 起き上がってドタドタ歩く。近い将来、遊びに行くであろう兄の家には男の足音と女の足音があれば嬉しい。そして、自分の家庭にもその音と気配があればいいなあと思う。