大津の家に移ってから、緋村抜刀斎――ここでは緋村倹心――は妻の巴と穏やかで静かな生活を送っていた。刀ではなく、鍬を握って土を耕し、薬草を摘んで薬を作り売り歩く。一日の大半を部屋に篭り過ごしていた京の生活とは違い、大津では一日中忙しなく動いている。人を殺すことのない、妻と二人きりの穏やかな生活は、剣心の忘れかけていた少年らしさと、今まで知ることもなかった弱き人々の小さな幸せを与えていた。
 京にいた頃はあんなにも華やかで都会らしく洗練された人々に溢れていたというのに、剣心は少しも楽しいと思えなかった。
 男も女も皆、京はいい街だと言う。天子様がおられるから。この国の中心だ。江戸から来た男などは、女がたくさんいていいことだという。だが、この千年王城は夜になれば魑魅魍魎の徘徊するところとなる。それらは人の形をして、人間を殺して回るのだ。抜刀斎は間違いなく鬼である。悪鬼だと皆が恐れながら、長州人たちは彼を頼りにし、佐幕派はただの戯れ言やまやかしの類で実在するとは露にも思っていない。全てを殺してしまう為に誰も見たことがないからである。見た者が生き残ることはない。 そしてその鬼はいま、京にいない。

 朝早くから起き、薬草を摘み、畑の様子を見ていた剣心は家に戻った。巴が朝餉の用意をしている筈である。両親の顔も覚えていない剣心の記憶には、両親との生活は残っていない。比古との生活では女っ気のない男二人の暮らしだった為に、こうして女と二人で暮らすことが不思議で堪らなかった。女というものはこういうものなのだろうか、とぼんやりと思いながら美しい人のことを考えて見る。何故彼女は自分のような男についてきてくれたのか分からない。彼女は剣心がしてきた数々の所業を知ってしまっている。恐ろしい男だと分かっているはずなのに、彼女は大津まで剣心と共にやってきた。彼女には感謝をしている。出来る限り慈しみたいと思っていた。

 食事を終え、二人は各々のすべきことの為に動き始める。剣心は摘んできた薬草を乾燥させる。巴は畑の様子を見に行く。静かで穏やかな時間が流れるのを、心地がよいのか悪いのか、剣心には判断がつかなかったが、気分は悪くなかった。禁門の変の後から、巴と剣心の関係に変化が起きているのは確かである。まず、間柄が変わった。小萩屋にいた頃はただ、拾い拾われた関係で、それ以上でもそれ以下でもなかった(周りは随分勘違いしてくれたが)。今はかりそめとはいえ夫婦だ。あと、巴の剣心に対する態度に変化が生じたように思われる。初めの頃は激しくないがちくちくとした棘のようなものを感じていた。そして無言で責められているようにも。今は戸惑いがちにこちらを見てくれる。距離を縮めていることが分かった。だがどこまで迫ってもいいのか分からないでいる。巴のことは何一つ訊ねていないし、聞かされてもいない。だから余計に巴のことが分かっているようで分からないでいる。ただ、目の前で剣心と暮らしてくれる巴を信じていたいと思う。なんであれ、巴は剣心の女房なのだ。

 ふと、巴の手が目に入った。綺麗な手だ。彼女は良家の子女だったと思われる。手が綺麗だからだ。農民であれば手がこんなに綺麗な筈がない。立ち振る舞いも美しいと思う。京の人間ではなく関東の人らしいとちらりと飯塚が言っていたのを思い出した。作る料理とか、言葉などに地方の特徴があるらしい。剣心は比古と篭っていた山と京しか殆ど知らないのでどれほど違うのかよく分かっていなかったが(とりあえず喋り方から京の人間ではないことくらいしか判別できなかった)、確かに巴の料理は小萩屋で出されるものとは少し違う。うまいからあまり気にしていなかったが、これが関東の味かと思うと不思議なものである。
「どうかなさいましたか。」
 巴が不審そうにこちらを見ていた。巴の手ばかりじっと見つめていたから、流石に気づかれてしまったらしい。気恥ずかしくて何でもないと返したが、その内「手を、」と零してしまっていた。
「手?」
「君の手を、見ていた。」
「何か面白いですか?」
「いや、そんなことは……。ただ、その、」
「なんでしょう。」
「綺麗だと、思った。」
 巴は少し目を見開いて 、それから、「そう、でしょうか。」と少し恥ずかしそうに返した。頬がやや赤い。表情のあまり変わらぬ彼女が照れているのだと分かると、こちらまでなんだか顔が熱くなってきてしまった。多分、剣心の頬も今赤く染まっていることだろう。
 いつも思うのだ。彼女の手は慈しみそのものである。剣心の奪うばかりの血腥い手とは大違いだ。
「ああ、綺麗だ。」
 その手を取って握り締めることができたらどれほど幸せだろうか。こうやって共に過ごしてくれるだけでありがたいのに、それ以上を望むのは傲慢だろう。それに夫婦になったとはいえ、仮初の関係でしかないのだから、その肌に触れることも許されないのである。
「 小さくて細くて、それでいてどんな事も器用にこなすから凄い。」
「大きさはあなたとあまり変わらないと思いますよ。」
「そうかな、何だか小さいように思うが。」
「あなたの手が年の割に大きいのではないでしょうか。」
「そうかもしれないな。ちょっと比べてみないか。」
 それは剣心の願望だった。彼女をこの腕に抱けないことは百も承知だったから、せめて手を触れることを許して欲しいという我儘であった。男として女に飢えているのもあったかもしれないし、子供が母の庇護と温かさを求めるようなものだったかもしれない。巴がまるで儚いからこの生活は夢なのか現なのかわからなくて、確かなものを感じたかったのかもしれない。ただ、触れたかった。
 剣心がそっと手を前に出すと彼女も何のためらいもなく手を出して、互いの手を重ねた。やはり巴の指は白魚のようだったし、その肌は絹のように美しく滑らかだった。対する剣心の手は肉刺だらけだったし、ごつごつとしている。無骨な手だ。巴より少しだけ大きいその手で、彼女の頼りない手を握ることができたならばどれほどの喜びが剣心に襲いかかることだろうか。そんな誘惑に負けぬように剣心はすぐに手を離した。
「やはり俺の方が少し大きかったな。」
 巴もさっと手を隠して、そうですね、と返した。彼女は僅かばかり俯いていて、その表情は読み取れない。照れているようではないと感じ取れる。だが、彼女の感情は剣心には全く分からない。せめて、どうか彼女が己を恐れないでくれたならばそれでいい、と女々しくも思うのであった。